近代朝鮮の開拓者/文化人(9

白南雲(下)
(ペク・ナムン)


 
人・ 物・ 紹・ 介

 白南雲(1894〜1979)解放の翌日、朝鮮学術院を組織。ソウル大学教授、新民党南支部委員長としても活躍。48年4月、平壌での全朝鮮政党社会団体代表者連席会議で南の情勢を報告。共和国創建と共に教育相などの要職に就く。


教授から政治活動へ/共和国創建と共に教育相に

 苛酷な日帝の時代、ひそかに彼は、その滅亡の日に備えて人々を組織し、解放の日を迎えるや、ただちに猛烈な活動を開始する。

 しかし、「解放」といっても、南朝鮮に進駐してきたのは、米軍であり、その手先となって人民の弾圧にとりかかったのは、昨日まで朝鮮総督府に雇われていた「親日分子」であった。 南の愛国的な人々は、これら反動勢力と闘いながら、新しい社会の建設、統一朝鮮の実現のために奮闘せねばならなかった。

 白南雲は「朝鮮学術院」の仕事をこなしながら、9月からは同志と共に日本人の去った「京城帝国大学」を民族的な「ソウル大学」に再建する作業に取り掛かった。

 彼は何よりも学部の独立と、教授会の自治権を主張し、米軍政当局者と交渉していく。この時、彼の主張は認められ、彼は法文学部の経済学教授となった。

 また、朝・ソ文化協会の必要性を説き、洪命憙(大河小説「林巨正」の作者)が会長、彼は理事となった。



 翌年の2月には「朝鮮独立同盟」(後の新民党)のソウル特別委員会の委員長に就任し、しだいに政治活動に入りこむことになる。

 4月には、民族文化団体総同盟の主催で「民族文化建設全国会議」が開かれ、「朝鮮民族文化建設の方向」について講演もした。ここで彼は、すなわち社会の改革と封建的観念の排除の重要性を説きながら、それは大衆運動の実践過程で創造される必然的な形態であると述べ、したがって「民族文化」は「民主改革」の下でのみ実現されるであろうと強調している。

 しかし、事態は切迫していた。反動たちの弾圧に対抗して、民主勢力の統一が叫ばれるなか、47年7月には南の民主主義民族戦線議長の呂運享は暗殺され、民主人士に対する検挙旋風が吹きあれた。同じ頃、白南雲も検挙され、数週間を獄中で過ごさねばならなかった。釈放と共に越北を決意し、北に向かったのである。

 彼はその後、48年4月21日に平壌で開かれた歴史的な「全朝鮮政党社会団体代表者連席会議」で「南朝鮮情勢報告」をし、多数の同志と共に、北に残り、共和国(9.9)が樹立されると、教育相に選ばれた。

 翌年には代表団として、ソ連訪問。52年10月、科学院創立と共に院長という重責を担った。その後、共和国で様々な要職につきながら、79年6月12日、86歳で天寿を全うした。 (金哲央、朝鮮大学校講師)
                                                                    解放の喜びに沸くソウル市民

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