近代朝鮮の開拓者/文化人(9)
白南雲(上)
(ペク・ナムン)
白南雲(1894〜1979年)全羅北道高敞のソンビ(在野の学者)の家に生まれ、水原農林学校を経て、東京高商で学ぶ。卒業後、延禧専門学校の教師、初めて唯物史観による「朝鮮経済史」を出版。多数の後進を育てた。 |
朝鮮史研究に唯物史観適用 「朝鮮経済史」などの著作出版 白南雲は、全羅北道高敞(コチャン)のソンビ(在野の学者)の家に生まれた。幼い時から厳しい朱子学的な家風の中で、父から漢学を学びながら成長した。この時期の勉強が、その後の研究生活の基礎となったという。 19歳の時、朝鮮総督府が農村の下級指導員を養成するために作った水原農林学校に進学した(学費と寄宿舎は無料、わずかだが生活費も支給された)。しかし、この時期を通じて、日帝下の朝鮮の悲惨な農業の現実を目撃することになる。卒業後、江華公立普通学校の教員として配置される。 ところが、彼はこの頃すでに日本に行き、本格的に経済学を勉強したいという希望を抱くようになっていた。 こうして3年間の教員生活をやめ、1918年10月、東京の地を踏んだ彼は、東京高等商業学校(現在の一橋大学)への進学準備をする。この時、だれの紹介であったのか、後に出版社「改造社」の社長になる山本実彦の家で起居することができた。 翌年3月、見事入学。山本の家を出て苦しい下宿生活が始まった。学校では福田徳三や高田保馬に学ぶ。彼らの「経済学説史」を通して、朝鮮経済史をマルクス・エンゲルスの唯物史観の立場から体系化したいという目標を持つようになった。 古代の1夫1婦制以前の「群婚」の時代があったことについて朝鮮日報は、「これでは恥ずかしい東方礼儀の国、わが国にも群婚の時代があった」というタイトルで訪問記事を書いている。37年には、さらに研究を深めて「朝鮮封建社会経済史」(上)を出版する。 しかし日帝は、彼を含む良心的な人々を「学内赤化運動」の口実のもとに検挙投獄(1年間)した。学園を心ならずも辞職した彼は、ソウルのある信用金庫に勤めながら解放の時を待たねばならなかった。待ちに待った解放の翌日、彼は同志たちと共に、「朝鮮学術院」創立総会を開き、その委員長に選出された。 (金哲央、朝鮮大学校講師) |