文 学 散 策

「錦 江」/申東曄

「民族自主」「民族解散」をうたった叙情詩

錦江は南の中西部の川。錦江河口の南岸に位置する港町が群山港
(写真は植民地時代の風景)


  半島の背を覆った鉄条網
 田畑の上に植えつけられた他国の基地。

 それを見ても
 われわれは、蜜を食べた唖のよう
 瞳を半分閉じて 月給の幸福に浸り
 1日を生きる

 あの日のハヌィと※(※=王偏に奉)準が見た
 李王朝の内も
 そのようなものであったのだろうか。

 詩人の死から6年後に刊行された初の全集が、「緊急措置9号」違反により発売禁止、その5年後に出された増補版も戒厳司令部の検閲を通らず、ようやく販売可能となったのが1985年であった。当時、南の地で、さして珍しくなかった言論弾圧の1事例ではあるが、問題となった作品が「錦江(クガン)」であったという非公式情報が喧伝されるにつれて、この叙事詩の文学史的価値、特に発表から30年以上経ってもなおいっそうの輝きを増す今日的意義があらためて実感させられる。



 テーマは、1894年の東学(甲午)農民戦争。前世紀の農民蜂起を謳(うた)った詩が、何故に15年前まで「禁書」とならなければならなかったのか?

 それはとりもなおさず詩人がこの農民戦争に何を見、どう捉えたかという問題であろう。申東曄は、東学の始祖である水雲斎・崔済愚の誕生から農民軍の指導者・全※(※=王偏に奉)準の生涯と最期までを、甲午年の戦いを中心に据えてダイナミックに描いている。しかし、これは単なる歴史物ではない。また彼が、過ぎ去った史実を語っているのでもない。東学農民戦争を素材に、今日の連なる苦難と戦いの民族史をこそ物語っている。

 そして彼の視点は、民衆の生とそれを圧殺しようとする権力、その頂点に君臨する外勢との凄絶なる対決一点に集約される。新羅が唐を引き込み、李王朝が清と日本に土下座した亡国の歴史に、解放後の「ミミズのような文字で埋まった」南の地をピタリと重ね合わせる詩人はしかし、「のし歩く傲慢たちよ誤解するなかれ/そなたたちが触れたのは歴史の殻/中身は(中略)錦江のように/われらの歌われらで唄い/ひっそりと横たわっていたのだ」と、誇り高く謳い上げる。

 そう、名作「殻は失せろ」で、「4月も中身だけ残って殻は失せろ」と詠んだ詩人のライフワークとも言うべきモチーフである「殻」と「中身」が、この「錦江」において、東学戦争から1919年の3.1独立運動を経て1960年の4月革命へと脈々と受け継がれてきた(まさに錦江の流れのように!)民衆の、生と戦いの歴史としてより深くより大きく描かれているのである。



 そもそも西学(キリスト教)に対しての東学に民族的主体を見いだした詩人は、同時に歴史の主体としての民衆が「初めて己の拳を見つめ/己の顔と胸を見つける」過程を、限りない愛情を持って物語っている。60年代に、この「民族自主」と「民衆解放」の大テーマを詩的形象として結実させた一点に、彼の業績の大部があると言っても過言ではないだろう。

 「錦江」を「叙情詩」とも称する人が少なくない。

 むせかえるような叙情が、スケールの大きい物語をしっかりと支えていることがその一般的な根拠であるが、ヒーロー全※(※=王偏に奉)準と義兄弟の契りを結ぶ申ハヌィなる神話的人物の存在が最大の理由ではあるまいか。ハヌィと結ばれるヒロインの名が印ジナ、詩人の妻が印氏であることの符合を考えるとき、申ハヌィ(西の意)こそ申東曄その人に違いないと推し量られるのである。

 いまだ終わらぬ外勢による分断(殻)の歴史、その中で身もだえのたうち、ついに立ち上がる民衆の犠牲。

 全※(※=王偏に奉)準と、詩人の分身ハヌィの最期を描いて物語は終わる。だが決して悲壮な詩、恨嘆の詩ではない。詩人は希望と信念を「空」と言うイメージで繰り返し表現する。「私たちは空を見た(中略)歴史を圧した黒い雲を裂いて/永遠の顔を見た(中略)わずかに輝いた/あなたの顔は/永遠の空」

 甲午から3.1そして4.19と未完の革命を謳い続けた詩人が、「もう来るであろう」と信じた「半島の空高くひるがえる平和」は、この世紀の変わり目にはっきりとその姿を見せ始めた。

    ※  ※

 申東曄は、1930年忠清南道扶餘で生まれる。69年、病死でこの世を去るまで高校教師を勤めるかたわら、詩作、詩論、詩劇の多方面で活躍、金洙映と共に参与詩、民衆詩の発展に不滅の足跡を残した。

(金正浩、朝鮮大学校教員)

TOP記事

 

会談の関連記事