近代朝鮮の開拓者/文化人(8)
鄭 寅 普
(チョン インボ)
鄭寅普(1893〜1950年)李朝名門の生まれ。幼くして漢学、とくに陽明学を学び一家をなす。1922年より延禧専門学校で漢文と朝鮮文学を教え、李朝末期の実学派学者を高く評価、彼らの遺稿を掘り起こし数々の書物を刊行した。 |
伝統的な国学の第一人者/清廉潔白な在野の学者 号は・園、為堂。李朝時代から有名な名門の生まれ。父親の鄭※(※=門の中に言)朝は、平壌監司(観察使−道の長官)まで務めたが、曲がったことが大嫌いな人であったという。ソウルに住みながら、日帝の侵略と共に生活は苦しくなっていた。 鄭寅普も幼い頃から、食事は松の実粥(かゆ)と3つのヂャン(カンヂャン=しょう油、テンヂャン=味噌、コチュヂャン=唐辛子味噌)だけという日が続いたという。 そういう日々の中でも伝統的な漢学と共に国学(朝鮮学)の勉強に打ち込んだ。とくに優れた陽明学者、李建芳について学び、かつ厳しい努力により、生まれつきの素質は驚くほどの成長をとげた。 別項に掲げた左上の写真は、1909年、彼が決意を新たに「まげ」を切る前に撮ったもの。しかし翌年、亡国の悲運にあうと、間島地方に亡命し、独立運動を展開し始めた人々と連絡を取るため鴨緑江を何度も越えることになる。 1913年には、上海に渡り活動を始めるが、半年余りで妻死亡の知らせが届き帰郷せねばならなかった。 それ以後、彼は国内に留まりながら、日帝の圧迫に対し「不降其志、不辱其身」(その志をまげず、その身を汚さず)の信念をもって行動するのである。 朝鮮文学としては、朴趾源の「熱河日記」に出てくる短編小説の意味をさぐっていった。さらに、民族のアイデンティティーの確立のために、李朝末期の実事求是(具体的な実事の中に真理を求める)の学風をもつ学者を「実学派」として評価し、茶山・丁若縺A湛軒・洪大容、旅菴・申景濬などの遺稿を掘り起こし、それらを刊行して、国学―歴史、哲学、地理、言語学などの発展に尽力していった。 また、梨花女子専門学校の講師、東亜日報の論説委員なども兼任したが、1940年代に入り、侵略戦争拡大にともない弾圧が強化されるや、全羅北道益山郡に隠退し、そこで光復の日を待ったのである。解放を迎え、ソウルに出て国学大学を創建、また、その清廉さをかわれ、一時、観察委員長に推されるが、間もなく辞任。朝鮮戦争時には人民軍とともに後退し、間もなく死亡した。 (金哲央、朝鮮大学校講師) |