近代朝鮮の開拓者/文化人(4

申菜浩(シン チェホ)


 
人・ 物・ 紹・ 介

 申采浩(1880〜1936年)1907年新民会創設会員。1910年中国へ亡命し、上海臨時政府に参加した後、26年に在中国朝鮮無政府主義者連盟に加入する。

 その後、逮捕され36年に獄死する。歴史研究家としても名高かった。

歴史通じて民衆を啓もう
こみ上げる情熱を筆に託す

 申采浩の思想の変せんは、彼の生きた激動の時代を反映して複雑である。

 忠清北道清原郡の封建儒生の家で生まれた彼は17歳の時、ソウルに出て儒学研究の中心であった成均館に入学し、伝統的な儒学の勉強を熱心にするが、朴殷植の進歩的な儒学の影響を受けて民族主義的な世界観を抱くようになっていった。

 19世紀末のソウル鐘路では、自主・民権・自強を主張する「独立協会」の運動が展開され、連日のように緊急な時事問題をめぐって大衆集会の形で「万民共同会」が開かれ、政府の近代的改革、ロシアの軍事的干渉や日本の経済的進出などに対して賛否両論の討論が行われ、民衆の覚醒を高めていった。

 成均館で学びながら、これら新しい時代の啓もう活動にふれた彼は、次第に「独立協会」に参加し、「万民共同会」の中堅として活躍するようになる。

 25歳で成均館博士になると、「皇城新聞」の主筆である張志淵にすすめられてこれに参加し、朴殷植、周時経など当代の代表的な言論人と共に、込み上げる情熱を一本の筆にたくして民族の心を揺り動かす論客の道へと進んでいくのである。

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 彼は「大韓毎日申報」に連載した「読史新論」で、夫余・高句麗主流説、箕子朝鮮の否定、三国文化が日本に与えた影響、事大主義批判など日本の御用学者の「学説」を鋭く批判した。 愛国的で民族の将来を憂慮する多くの読者から熱い支持を受けたし、続いて執筆した「大同4000年史」、「乙支文徳」、「李舜臣伝」、「伊太利(イタリ)建国三傑伝」なども、人々の民族意識を高め、新しい自主独立国家建設の必要性を痛感させたのである。

 愛国的な抗日運動もむなしく、亡国の暗雲が立ちこめる1910年4月、彼はついに亡命を決意する。中国の青島を経て、ウラジオストックや旧満州桓仁県などで、武装闘争をめざす「光復会」や「東昌学校」などを組織し、かつ歴史研究を深めるため集安に残る高句麗の広開土王陵碑などの遺跡の踏査を行った。

 それからの彼の思想と行動の展開を見ると、上海臨時政府に参加するが、李承晩のやり方に反対して関係を絶ち、無産階級による民衆革命路線を歩み始める。中国共産党の影響と共に、無政府主義者の少数精鋭分子による反抗にも心を動かされた。

 28年5月、日本の警察に逮捕され、旅順監獄で獄死した。

 解放後、4巻の全集が出版され、いまも彼の志は受けつがれている。  (金哲央、朝鮮大学校講師)

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