語り継ごう、20世紀の物語
38年間、女性同盟分会長の重責果たし60年ぶりに帰国
洪鐘純さん(85歳)
微用第一船で美唄炭坑に駆り出された夫 「祖国の懐で余生を」との夫の遺言心に刻み 北海道・函館に住む洪鐘純さん(85)は4月30日、新潟から祖国への帰途に着く。渡日以来60年の歳月が流れた。 故郷は慶尚北道軍威郡。17歳の時、1つ年下で、川1つで隔てられた隣村の青年、申栄俊さんと結ばれた。しかし、新婚の幸せな日々は、戦火の拡大によってかき消されていった。朝鮮全土でまるで野犬狩りのような強制連行が始まったのが1939年。お腹には5年目にしてやっと恵まれた我が子が宿っていた。 「村の男たちはみんな普段着か野良着姿で、なかには草履もはかず、泥のついた足のまま、日本人に引っ張って行かれたのです」。夫も徴用第1船に乗せられた。この時23歳。長男の誕生を見ることもなく、過酷な運命は、家族を引き裂いた。 夫の連行先は北海道美唄炭坑だった。釜山から小樽を経てヤマへ。実に1週間の凄まじい旅だった。乳飲み子を抱いて妻が夫の下に駆けつけたのは翌年のこと。 苦難の暮らしが美唄の山奥で始った。それでも夫との再会は、言葉では尽くし難い幸福感をもたらした。 故郷にいるときは義父から「うちの嫁は朝鮮1の働きもの」と褒められたほど。機織り、裁縫、洗濯、のり張り、サンナムル(山菜)採り…。身につけた様々な生活技術と知恵は日本での苦しい生活を切り開く大きな支えとなった。「炭坑の暮らしは飢えと紙一重。配給だけに頼ったら飢え死にしかない。そこで闇で買った餅米や砂糖、小豆でチャルトッ(一口餅)を作り、山の仲間に食べさせたり、隣近所の人に分けたりしました」 するとそのおいしさがたちまち評判に。「アジュモニ、餅を作って売って下さい」と言う声に押されて、商売を始めた。日本に来たのが40年4月。餅作りを始め、そのあがりの15円を、故郷の婚家に送金し始めたのが、同年5月。洪さんのこの機を見るに敏な才覚が、最初に芽生えたのがこの時だった。 忘れられない大惨事が美唄炭坑を襲ったのは41年のこと。爆発事故が起きて、強制連行されてきた多くの仲間が犠牲になった。「結婚したばかりの若い妻と乳飲み子たちが後に残されました。『アイゴー、アイゴー』の悲痛な叫びは今も耳の奥で響いている。焼け出された遺体をきちんと確認もせず、裏山の頂きに運んでガソリンで焼却していた惨状が目に焼きついています」と涙ぐむ。 奴隷労働の果ての無念の死。犠牲者の遺族に見舞金すら支払われなかった。故郷に死亡通知が送られた話も聞いたことがない。踏みにじられた人々の呻きと嘆きは解放の日までやむことはなかったのだ。洪さんはその生証人だ。「日本帝国主義の繁栄の歴史は、朝鮮人のしかばねの上に築かれたもの。これをウソだと言う人は世界中にいないだろう」と。 やがて解放。洪さんの新たな生きるための闘いが始まった。岩手県・東和町、石鳥谷、米軍基地の青森県の三沢、そして函館へ。「石鳥谷では2年ほどいたが、共和国が創建された日、同胞七軒が住む長屋のみんなが集まって、ポールに旗をなびかせて、『金日成将軍マンセー(万歳)』と声を限りに叫んだ。すると、その声が山に響いてね…」 やがて、山を降りて、三沢で商売を始めた。ラーメン屋、飲食店、焼き肉、結婚式場…。商売はことごとく当たった。三男一女にも恵まれた。 日本語も読めないのに調理師免許にも合格した。口頭試験を受けてほぼ満点の成績。食堂には米軍もよく食べに来た。片言の英語で丁丁発止。するとそれが面白いって客がまた来る。忙しくて、お茶1杯飲む暇がなかった」。 楽天的できっぷのいいおかみの評判はうなぎ登り。開店時間から鈴なりの人が店に押しかけた。従業員は80人ほどに膨れ上がり、みなから「おかあさん、おかあさん」と慕われた。店の日本人従業員に所帯を持たせ、家まで建ててあげたことも。「心底尽くしてくれたからね。真心で尽くせば真心が返ってくるもの。朝鮮には『人は損して得を取る』ということわざや『一食抜いても、つきあいはきれいに』という言葉がある。その通りにやれば、間違いないよ」。 夫もやがてパチンコ業を始めた。最盛期には四店舗もあったが、「出店したら他人に店を任せ、ひたすら『金日成著作集』を読むことに没頭した夫」は商売向きではなかった。「欲のない人でした。とにかく、主席の本を片時も離さず、食い入るように読んでメモしていました」。 朝鮮学校や組織を大切にし、寄付を惜しまなかったその夫も、5年前に帰らぬ人となった。洪さんがある日、字が読めないことを嘆くのを聞いてこう励ましたという。「字が分からなくても、人が君の周りには集まってくる。立派に仕事をこなす君を信用して、銀行だって電話1本で、1千万円でも2千万円でも貸してくれるじゃないか。卑下したらいけないよ」と。「一緒になって62年、本当に幸せだった。奥の深い人でした。その夫が手を握りながら『私が死んだら祖国に帰り、主席の懐に抱かれて安心して余生を送りなさい』と遺言を残してくれました。この言葉を心に刻んで、祖国に帰っても、元気な限りみんなの役にたちたいと思います」。 数年前には2男に先立たれるという耐えがたい悲しみを味わった。自身も強盗に襲われ、生死をさまよう事件にも巻き込まれた。しかし、どんな時でも強じんな精神力で立ち直った。 三沢、函館を離れる4月までの38八年間、女性同盟分会長の任にあった。帰国に当たって受け持っている分会メンバー全員と自分の今年1年分の会費を女性同盟函館支部委員長に差し出した。「人間として当然の道理。分会長としての責任を果たしただけ」と微笑むハルモニの顔は掛け値なしに美しかった。 祖国の運命と共に、木の葉のように翻ろうされた人生。しかし、逆境の中で決して折れることなく、祖国に思いを寄せながら、生き抜いたハルモニを、春真っ盛りの祖国の山河も祝福してくれるだろう。そして、そこには長男・申大熊さん(61)と三男・大仁さん(53)の家族が到着を心から待ちわびている。 (朴日粉記者) |