アメ横、在日同胞の今

スプロール現象に景気低迷/大手ディスカウント店の登場


代替わり、生き残りへ全力

 東京・台東区、JR上野駅前の一角。日本の敗戦後、焼け跡から人々が食料を求めて集り、ヤミ市が始まった。現在の「アメ横」と呼ばれる,商店街の出発でもある。その「アメ横」で店を構える在日同胞は少なくない。だが、最近景気の低迷で閉店に追い込まれる店も出ている。在日同胞のある姉妹兄弟を「アメ横」の推移とともに追った。

焼け跡から成長

 「アメ横」は最近、活気を失いかけている。近年にみるスプロール現象(大都市が無秩序に発展し郊外に拡大していく現象)、長引く景気の低迷は客足を遠のけている。さらに、北の玄関口だった上野駅は、かつてと比べて大きく後退した。客に「アメ横に行けば」という思いが、それほど無くなってきている。

 大型ディスカウント店の登場が追い討ちをかけ、岐路に立たされる店も出始めている。

 焼け跡から共に成長し、同じ店が軒を並べても助け合うといった、「アメ横」ならではの「団結」は、都市が抱えている問題の1つのように、消えさりつつあるようだ。

 「アメ横」は1945年6月、正式に称号登録をした。名前の由来は、食料品関係を取り扱う店、とくに中でも「飴屋」が多かったということが1つ。一方で米軍の放出した商品が多く集まったことから、誰彼となく「アメ横」と呼ぶようになったという。

30年の店が閉店

 こうした景気低迷のあおりをうけ、昨年12月、30年以上も続いた「アメ横」内、上野4丁目の化粧品店「司商会」が閉店した。

 「司商会」は、全慶児さん(38)姉妹が支えてきた店だ。

 「アメ横」のほとんどの店が、現在、親から代替わりをしている。そのなかで、続けるべきかなど、商売上の悩みを抱える人たちも少なくない。

 もともと「司商会」は、1968年に父の全喜奉さん(故人)が、日清ゴルフ退職後、その知識を生かしてゴルフウェアー店として始めた。

 その後、85年に商売替えし、化粧品店として新装開店。次女の慶児さんと三女の淑児さん(37)、四女の令児さん(35)が交替で見てきた。何よりも人権費の削減だった。

 その一方で87年、国鉄がJRに民営化され、もともと国鉄の所有地だった「アメ横」一体の土地は、それぞれに払い下げとなった。それを機に、駅前通りにインポートカジュアル店を出店した。

 長女の徳児さんは78年に高校卒業と同時に共和国へ帰国。次女、四女もその後、相次いで結婚。また、父親が91年に、母親が95年にそれぞれこの世を去った。

 昨年店を閉める時に、そうした色々なことが走馬灯のように脳裏に浮かんできたと、慶児さんは振り返った。半年間、姉妹でじっくりと相談し合い、回りのお店が閉められていくなか、なかなか結論をだせなかったのも、「親の形見」という思いがあったからだった。

新しい感覚で

 「これから、新しい感覚でどう受け継いでいくのか」と、残された駅前通りのインポートカジュアル店を任された次男の昶佑さん(30)は、言う。父親が「司商会」を始めた時に丁度、生まれた。

 景気の良い時は、商品を並べてさえいれば売れたが、景気低迷のあおりで、4丁目の人通りは減る一方となった。それに加え、2か所の入り口の一方がふさがれ、そこに化粧品を販売する大手ドラッグストアができた。

 ドラッグストアを作るなら、入り口をふさがないように言ったが、聞いてもらえなかった。

 「大手は地域全体を考えない」と憤っても、今や一般店でも1割、2割引きをしている時代。打撃はそれだけではなかった。

 客層も変わり、若い人たちは、売り買いで言葉を交わすことを好まなくなっている。「商品もインターネットで買えてしまう時代。輸入も自由化した。人を呼ぶにはアメ横にしかないものを集めなければむずかしい」(慶児さん)

 泣く泣く、4丁目の店を閉めたが、残ったインポートカジュアル店に全力を傾けている。

 「とにかくこの店はつぶしたくない」(昶佑さん)そのためにも、若者をターゲットにしたこだわりのある商品を置いていきたいと意欲的だ。そこからは、1世が持っていたたくましさを垣間見ることができた。
(金美嶺記者)

TOP記事 文  化 情  報
みんなの広場
生活・権利