近代朝鮮の開拓者/文化人

周時経(チュ  シギョン)


 
人・ 物・ 紹・ 介

 周時経(1876〜1914年)貧しい儒学者の家に生まれる。
 ソウルに出て開化期の新学問を学び、国語、国文法の研究を始め、現代国語学の基礎を固める一方で多くの後継者を育てた。遺稿集も出版された。

 周時経は、わが国が開化期の始まりを告げた1876年に、黄海道鳳山郡の貧しい学者の家に生まれた。父が在野の儒学者であったので、一家の台所事情は厳しく、貧乏は影のごとく一生つきまとっていた。

 このため、彼は幼い時から慢性的な栄養失調によって、何度も気絶することがあったという。虚弱体質に加えて、1910年に国が日本に奪われたことによるうっ憤と過労が重なり、38歳の若さでこの世を去らねばならなかったのである。

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 彼は12歳の時に、一家の口減らしのためソウルに住む伯父(おじ)の家に養子に出された。これが彼の生涯の転機となる。家の近くの塾で、新しい算術、世界地理、歴史などを学んだ彼は、勉学の志を抱いて培材学堂の万国地誌特別科に入学した。

 後に、25歳で学堂の普通科を卒業した彼は、21歳の時に出会った女性との結婚生活のために、学堂の恩師である徐載弼たちの経営していた独立新聞社の会計および校正補助員として働いた。そこで朝鮮語の近代的な表記法と文法に関心を深め、かつ政治的には独立協会に加入して、積極的な活動を繰り広げていった。

 そして、1896年には新聞社の中に国文を研究する「同式会」を設け、国語、文字、文法問題などの研究を推し進めていく。

 1900年に入ると、彼は国語、国文字の立派な研究者、教育家として有名な存在となり、ソウルのほとんどすべての学校から講師として招かれ、国語、文法など多くの講義を行った。

 あまりの忙しさに、雇った人力車を校門に待たせておき、講義が終わると次の学校へと走らせたという。

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 開化期に入り、文字(ハングル)による印刷物が増加していくが、その表記法は一定せず、まちまちで各人の勝手な表記にまかされ、とくにパッチム(終声子音)の表記は統一されていなかった。

 1907年、国語、国文字問題の統一のため政府が設けた国文研究所で、彼は専門委員の1人として重要な役割をはたしていく。また、文学者であった崔南善が光文会を作り国語辞典の編さんを始めた際に、これにも協力し、結実を見ることができなかったが大きな実績を残した。

 この間に「国語文典音学」、「国語文法」、「国文初学」、「言葉の音(マルウィ ソリ)」など、現代国語学の基礎となる先駆的な研究を行った。

 1910年に朝鮮が日本の植民地となった後も、彼は正しい国語に民族の魂がやどることを信じ、友人たちが植民地政策に荷担していくなかでも、最後まで志操を曲げず奮闘を続けて短かい一生を終えたのである。(金哲央、朝鮮大学校講師)

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