わがまち・ウリトンネ(50)
名古屋・弥次ヱ(3)
2度の大地震に遭遇/多くが軍需工場に連行
前号まで、弥次ヱにトンネが形成されるまでの過程を紹介したが、では彼らが祖国解放(1945年8月15日)前、あるいは解放後、どのようにして名古屋市南区に集まってきたのか。
トンネに住む林秀夫さんと金弥善さん
戦時中、南区には軍需工場が密集していた。愛知県朝鮮人強制連行真相調査団の調査により、三菱重工業名古屋航空機道徳工場、名古屋調質工業、大同製鋼、星崎工場、浅野セメント名古屋工場などの企業所に、多くの同胞が連行されてきたことが明らかになっている。しかしそれ以上詳しいことは分からない。
トンネに住む金弥善さん(80)は、71年初に広島から市営新弥次ヱ荘に引っ越してきた。解放前、土木業の飯場を営む父と県内を転々としたことがあるという。
金さんが日本に渡って来たのは22年、13歳の時だ。半田市で飯場を営む祖父を頼って、家族とともに渡日した。金さんの父は、県内の火薬工場、大府飛行場などの建設現場で飯場を営んだ。母はその飯炊きなどを行ったという。
44年5月に秋田県の花岡鉱山へ移ったが、同年12月に中部地方一帯で東南海地震(マグニチュード8.1)が発生。祖父の安否を気遣い、半田市に戻って来た。ところが、翌年1月にも三河地震(同7.1)が発生。いずれの地震も、埋め立て地である南区が、大きな被害にあった。同胞被災者らも少なくなかったと見られる。
金さんはその後、県内で祖国解放を迎え、47年秋に、故郷の慶尚北道に帰国することにした。だが、下関と釜山を結ぶ「関釜連絡船」が閉鎖されていて、金さんはやむなく帰国を断念する。
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メ モ 日本の植民地時代、同胞の多くは釜山から下関経由で日本に渡ってきた。解放後、同胞は帰国のために日本各地から下関に集まってきたが、米軍による関門海峡の機雷封鎖によって下関港は使用できなかった。代わりに、博多港と山口県の仙崎港が利用された。しかし人数制限によって乗船することができない人が続出した。中には船を調達して密航する人もいた。 |
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「私たちも、何とかして故郷に近い九州まで行って船を買い、密航して帰ろうとしたんです。しかし途中、密航でつかまったとか、船がぶつかり沈没したなど、良くない情報が入ってきました。すべて事実でした。それで、九州行きをあきらめ、広島の大竹で生活するようになったんです」(金さん)
かつて、どういった人たちがトンネに住んでいたかは、金さんの話からは残念ながら知ることはできなかった。しかし、おそらく南区あるいはその周辺の土木工事、軍需工場などに従事した同胞たちであろうと推測できる。(羅基哲記者)