わがまち・ウリトンネ(49)
名古屋・弥次ヱ(2)


伊勢湾台風、南区では同胞83人が死亡
屋根の上で夜を明かす

 1959年9月26日の伊勢湾台風は、かつてない強風と高潮を伴う超大型のものだった。

 被害世帯は、名古屋市の3分の1以上にあたる約12万8000世帯。中でも激甚地の指定を受けた南部5区(南・港・中川、熱田・瑞穂)の被害は甚大だった。

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 伊勢湾台風は、9月21日、マリアナの東にあった弱い熱帯性低気圧が急速に発達して発生した。26日の午後7時には奈良・和歌山の県境に、午後9時には鈴鹿峠付近を通り、午後10時ごろ揖斐川上流に達した。その後、暴風雨圏はしだいに東北に移り、午後10時の名古屋における最大瞬時風速は、37メートルを観測した。台風が通過する2〜3時間の間の降雨量は、1時間あたり40〜70ミリを記録。そのため各河川は急速に増水し、名古屋港の最大潮位は平均3.55メートルを超え5.81メートルにも達した。決壊した大江川の水のほとんどは、南区を斜めに2分していた東海道本線の西側、海抜0.5〜1メートルの低地に溢れた。

 
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 台風の半年前に、南区に引っ越してきた林秀夫さん(86)は、当時の状況をこう語る。

 「名古屋港につながる大江川の堤防が高潮の逆流によって決壊し、莫大な被害が出ました。それに満潮時と重なり、川の水が一瞬のうちに家の天井まで押し寄せて来たため、屋根の上で夜を明かし、水がひくのを待ちました。大江川は貯木場にもなっていたので、強風や高波で溢れ出た巨木が家の壁をぶち破り、死傷者が多く出ました。中には直径1メートル以上、重さ5トンにおよぶ材木があったと聞いています」

 総聯の愛知県風水害対策本部の調査によると、同胞死者は10月6日までの間に、123人(愛知109人、三重14人)に達した。家屋の被害は全壊(439戸)、流失、半壊、床上・床下浸水など、広範囲に渡った。当時、弥次ヱトンネのある南区の同胞数は250世帯2119人で、死者は83人にのぼった。

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  大江川前の南区浜田町には、被災者らの靴が集まったことから、60年4月、伊勢湾台風殉職者慰霊碑「くつ塚」が建立された。以来、毎年9月26日には追悼行事が営まれている。大江川は73年1月に埋め立てられ、現在は緑地になっている。


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 ちなみにり災同胞の80%が台風前に帰国申請をしており、同年末に始まった帰国事業によって多くの同胞が帰国した。それでも南区には現在、約2400人が暮らし、市内では中村区に次いで2番目に多い。   (羅基哲記者)