非常設チームとして再出発
日本の「幻の王者」
在日朝鮮蹴球団、金光浩団長に聞く
今後は試合の度に幅広く選手を選抜
朝鮮国家代表への道も
1961年の結成以来、日本の強豪チームなどを相手に、891勝140敗86分(99年末現在)という輝かしい戦績をあげ、日本サッカー界でも「幻の王者」と呼ばれていた在日朝鮮蹴球団。同蹴球団が、今年から非常設チームとして新たな形で再出発することになった。1月28日に開かれた在日本朝鮮人サッカー協会常任理事会で正式に決定したもの。その経緯、背景、今後の活動方針などについて、金光浩団長に聞いた。
結成から30余年
在日朝鮮蹴球団は1961年8月25日、そもそもは非常設のチームとして結成された。結成当時は、学生をはじめ、日本各地で活躍する各界各層の優秀な同胞選手を選抜し、朝・日親善試合に臨んでいた。以降、朝高卒業生、朝大サッカー部などが中心となり、数々の親善試合を組んでは遠征にも出かけるなど、活動を活発化させていった。
そして1964年、東京五輪に出場するため訪日した朝鮮代表チームに触発され、選手たちが総聯の各機関に籍を置きながら練習と試合に専念する形のセミプロチームになった。
それから30余年が過ぎ、蹴球団を取り巻く環境は大きく変化した。
モチベーション低下
第1に、蹴球団結成の本来の目的であり、蹴球団にとって「公式戦」と言える朝・日親善試合が年々組みにくくなった。70年代には年平均30試合ほどだったのが、80年代には15試合、90年代には7試合と減っていた。
とくに、93年のJリーグ発足後、日本のサッカー界はプロのJ1、J2を頂点に、JFL、地域リーグ、都道府県リーグ…という形に一元化、年間試合日程がびっしりと組まれるようになった。外国籍の選手が6人以上いるチームは正式加盟できないという日本サッカー協会の規定により、このシステムに入れない蹴球団が、日本のチームと試合できるチャンスは激減した。結果、練習試合が主になり、選手たちのモチベーションを維持するのが困難になった。
状況打開へ、当初はシステムの中に入ろうと試みた。取りあえずはJFLを目標に、94年から東京都リーグに「準加盟」して4部からスタート。98年には1部優勝を遂げた。普通ならここで、関東リーグ昇格をかけてたたかう関東社会人大会の出場権を得るのだが、「準加盟」チームには認められない。出場を求めて要望を重ねてきたが、「壁」は厚い。
第2に運営面だ。長引く経済不況により、同胞商工人と組織のバックアップが困難になった。
第3は、同胞たちのニーズの変化だ。同胞の関心は、日本のトップレベルと同じ土壌で試合ができない蹴球団よりも、特例的措置とは言え全国大会への道が開かれた高級、中級学校サッカー部の公式試合での活躍に向くようになった。
誇り、精神変わらず
このような状況下で、非常設化は最善の選択だと思う。環境の変化にいかに対応するか、すでに数年前から議論を重ねていた。今は、困難な中で常設セミプロチームに固執するより、指導者として学校を中心とした同胞サッカー界の発展に尽くしながら力を蓄積する時期ではないだろうか。
もちろん、各地の優秀な選手を集めて朝・日親善試合は行っていく。非常設になった分、より幅広い範囲から選手を選抜できる。全国に8つの地方サッカー協会と連携し、各地の蹴球団、朝大、日本の大学、朝高はもちろん、プロとして活躍する同胞選手にも声をかけていきたい。一方、上部リーグ昇格を求める運動は続けていく。
様々な場所で活躍する同胞選手の能力、希望、志向に沿った受け皿となること、つまり「場」の提供が蹴球団の役割だ。これまで同様、優秀な選手については朝鮮の国家代表への道筋も作っていく。現在も梁圭史(21、FW)、金鐘達(30、GK)の2選手が、3月にタイとマレーシアで行われるアジアカップ予選の出場を目指し、平壌で、代表を選抜する強化合宿に合流して汗を流している。
朝鮮国家代表入りを目指し、現地で強化合宿に合流中の梁圭史
(左から2人目)、金鐘達(同3人目)の2選手
一方、3年前、千葉市に建設した専用グラウンドに現在、宿泊施設を増築中だ。試合前の合宿、練習に使用するのはもちろん、同胞サッカーの拠点として広く開放する予定だ。
チームの形態が変わっても、結成以来育んできた在日同胞サッカーマンとしての誇り、それを胸にプレーしてきた蹴球団の精神は変わらない。蹴球団は今後も、サッカーで在日同胞が夢を実現するための「場」であり続ける。 (韓東賢記者)