わがまち・ウリトンネ(46)/東京・馬込(3)


跡地は2階建ての分会事務所に/
寺子屋式の「朝鮮人学校」                        
馬込トンネの同胞たちの集い(60年代)

 祖国解放(1945年8月15日)直後の同年10月、馬込のトンネに、「馬込朝鮮人学院」が創設され、民族教育が始まった。場所はトンネの中心地に近い。総聯馬込分会の事務所(現在は駐車場)があった所だ。

 先生は、トンネに住む卞允植さん(60)のアボジだった。5歳の允植さんは、「寺子屋式の学校で、30人ほどの子供たちと一緒に母国語などを学んだ」。

 大田区内ではそれ以外にも、池上、大森、蒲田などの各地で民族教育が行われた。47年9月にはそれらを統合し、久が原に東京朝連第6小学校(現在は公園)が創立された。当時の生徒数は260人にのぼった。

 しかし2年後の49年10月、日本当局の「朝鮮人学校閉鎖令」によって、同校をはじめ全国すべての学校が強制的に閉鎖された。が、民族教育を守るために、同胞らは廃校となった東調布高等女子学校(千鳥町)を買収し、同年12月からは「東京都立朝鮮人第6小学校」の看板を掲げ民族教育を続けた。55年3月、校名は東京朝鮮第6初級学校に改称され、60年から94年までは中級部が併設された。

 80年には、総聯大田支部と同胞父母らによって、民族教育の諸権利を拡大するための3万人の署名が大田区議会に提出された。その結果、市区町村単位では全国で初めて、区から「保護者補助金」を獲得するに至った。

    ◇     ◇

 馬込のトンネは60年代に入り、様変わりし始めた。平屋のバラックは腐って建て替えを迫られるようになった。成長した子供たちも、より広い空間を必要とした。

 こうした理由などから、鉄くずや古着を集めるバタ屋などを営みながら、少しずつ貯めたお金で、家を補修したり新築する同胞らが増えてきた。ちなみに「馬込朝鮮人学院」の跡地に、木造2階建ての総聯馬込分会事務所が建てられたのも、60年のことである。

 トンネの歴史とともに歩んできた魯晋伯さん(71)は、「バタ屋に従事する同胞が多かったことから、80年代までは同胞らで作った銅鉄組合がありました。しかし、1世が築いた鉄くず業を継ぐ2世は年々少なくなり、今では数軒が残るだけです」と語る。

 古鉄業を営む同胞が減ったのは、鉄の値が下がり、割に合わなくなったからだ。むろん、銅鉄組合もなくなった。

 2世たちは現在、主に焼肉などの食堂、水商売、ダンプなどの事業に手を広げている。

    ◇     ◇

メ    モ

 馬込のトンネは、47年3月の大森区と蒲田区の合併による大田区の誕生以前までは、馬込町東、西に分かれていた。合併後に、現在の東、西、中、南、北馬込に分離された。

                                                                                       (羅基哲記者)