わがまち・ウリトンネ(45)/東京・馬込(2)


闇市で売り、タッペギ造る/借金してコメの買い出しに

 前号で紹介したように、祖国解放(1945年8月15日)直後、馬込のトンネに暮らしていた同胞たちは主に、古物商や日雇い労働の「ニコヨン」などに従事していた。

 当時、食糧難の時期だけに、米の買い出しや闇市での物買いが日常化していた。

 「トンネの主」魯晋伯さん(71)は、「千葉や茨城、栃木などで安く買ってきた闇米を東京で売ったり、その米でタッペギ(どぶろく)を造って売っていた」と語る。

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   解放直後、食糧難から米などの食糧は配給制となり、買い出しが頻繁に行われていた。その一方で、取り締まりも強化された。47年4月、大宮駅では武装警官約200人が出動し、500余人が検挙された。押収された食糧は、白米や清酒などだった。

 
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 買い出しには汽車で行かなければならないが、人数制限があったため、切符はなかなか手に入らなかったという。

 魯さんは、「切符の日付を書き直して汽車に乗ったこともあった。車中ではたびたび取り締まりがあったが、それを逃れるため、米を少量に分け、座席の上の電灯の裏や窓の溝などに隠した。無事に最寄りの品川駅に到着すると、トンネの同胞たちが迎えに来てくれた。しかし取り締まりにあってつかまれば、たまったもんじゃない。借金して仕入れた米をすべて没収されたからだ」と振り返る。

 闇米は、タッペギ造りにも使用された。トンネの中心地には、かつてスピーカーがあったが、これはタッペギ造りの摘発があることを知らせるためのものだった。

 「摘発があるとわかったら、すぐにスピーカーで、『やつらが来たー』などと知らせるんです。すると、土かめに入っているタッペギをどぶに捨て、証拠をいん滅するんです」、「しかし彼らもしつこくバケツを持ってきてタッペギを拾い、アジュモニ(おばさん)たちに『これは何だ』などと突き付けるんです。年がら年中もめていました」、「しかし、顧客の刑事の中には、あるハンメ(おばあさん)に『いついつ来るから』などと摘発の日時を耳打ちする人もいました」(魯さん)

 食糧事情の厳しい戦後の混乱期、トンネでは、ケジャングッ(犬のスープ)作りも頻繁に行われていた。

 当時を知る金永文さん(72)は、「キャーンという泣き声が聞こえると、料理の始まりです。どこのトンネでもあったのでは」と言う。

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  1145年に編さんされた「三国史記」には、ソウルでは犬が飼育されていたとの記述がある。

                                                                                       (羅基哲記者)