近代朝鮮の開拓者/芸術家(6) 李象範(リ  サンボム)


 さて、それでは、伝統絵画の近代化は誰によって、推し進められたのであろうか。わが国の近代絵画史において、先駆者としてまず名前が上げられるのは、小琳・趙錫晋(1853〜1920)と心田・安中植(1861〜1919年)である。が、ここでは紙面の関係上、この2人によって育てられた李象範を紹介することにする。

李象範(1897〜1972年)、号は青田(チョンジョン)。

   幼くして父を亡くし、画家の徒弟となる。独立後、伝統絵画の革新のため静かで堅実な努力を続けた。東亜日報の小説の挿画を描き、のちに弘益大学校の美術の教授になる。

景観を主題にした絵画/心のユートピアを描く

 青田・李象範は19世紀の末、忠清南道公州郡の農村で生まれた。幼くして父を亡くした彼の一家は、生活の糧を求めてソウルに移住する。そこでやっと小学校を卒業した彼は、20世紀の植民地都市・ソウルのルンペン・プロレタリアの1人として、生きるためのあらゆる苦難を経験せねばならなかった。

 17歳の時、「生きるための苦しみに疲れ果てて」彼の選んだ道は、伝統画の徒弟養成所である京城書画美術院の門をたたくことであった。先生たちの雑用をしながら、画法を学ぶわけである。

 ここで先の2人の先生、とりわけ心田・安中植の画に心酔して影響を受け、かつ愛された。彼の号である青田とは、「青年の心田」という意味で、心田の画法を受け継ぎ発展させようとの意をこめて、安中植が付けてくれたものである。


 彼の独立は4年後の21歳の時、朝鮮書画協会が創設されると、ここに正会員として参加した。24歳の時に、第1回の書画協会展が開かれると、初めてこれに出品した。いまだ伝統的な中国式の山水画であったが、彼自身がもっともこれにあきたらず不満をもって、新しい境地と手法を模索しようと苦心していたのである。

 彼の開拓した新しい境地―それは実に平凡であった。彼の画には「奇岩絶壁の幽玄美」など出てこない。朝鮮のどこにも見られる晩秋、または冬枯れの農村の明るく淋しい低い山、その中腹に農家が1軒か2軒うずくまっており、よく見ると夕暮れに帰りを急ぐ農夫が1人、前かがみに体を傾けて歩いている―。

 これが「千編一律」と悪口をいわれながらも、その後40年間、ソウル鐘路区の裏街にある彼の住居であり画室である青硯山房(チョンヨンサンバン)にひき籠もって固執して描きつづけた画題である。

 彼は、いわば朝鮮人の心の故郷、貧しくとも平和であった、幼ななじみと仲良く遊んだ心のユートピアを描きつづけたのであろう。

 南では、現在最も人気の高い画家として、驚くほどの高値で取り引きされており、小さな青硯山房も保存され、美術愛好家の名所となっている。
(金哲央、朝鮮大学校講師)