わがまち・ウリトンネ(42)/東京・三河島(2)
地場産業との関連/多くがかばん製造業に
李三龍さん(76)は、1950年代半ばに三河島に居を構えた頃、すでに洋服の加工業を営んでいた。だがその頃、こうした縫製の仕事をする同胞は少なく、多くは、かばん製造業に携わっていた。足立はヘップ、荒川はかばんと言われていた。
ほとんどが下請けだったが、多少余裕のある人の中には製造・販売を一手に引き受ける者もいたという。
このように、三河島トンネに住む同胞の多くがかばん製造業を営んだ背景には、皮革関連産業が荒川の地場産業であったことと関係するようだ。
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メ モ 荒川における皮革関連産業の歴史は、1890年頃にさかのぼる。「荒川区史・下」(1989年3月刊)によると、旧区史には次のような記述が見られるという。 「…明治23年(1890年)頃、現在の尾久変電所付近に屠(と)場、皮革工場、肥料工場、油脂工場が経営された。これらの事業所はそれぞれ相関連するものであった。しかしこれらの事業所は長く経営が継続されたものではなく、その後皮工場は三河島に移動した」 |
また、22年刊行の「三河島町誌」によれば、1883年には、三河島にすでに皮革工場が操業されていたという。いずれにせよ、早くから三河島で皮革産業が発達していたことが分かる。
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前述の「荒川区史・下」によると、皮革の生産が本格化するのは1950年以降。統制が外され、民間貿易が再開されたことによって輸入原皮の入手が容易になってからのことだ。
これにともない事業所数も急増。荒川区の工場数は、46年の28から、54年には456に激増する。このように見ると、祖国解放(45年8月15日)後、多くの同胞がこの業界に参入したとしても何ら不思議ではない。
とくに荒川区は、皮革部門の中でもかばん業の占める割合が27%と集中している。しかも、事業所数の多いのは、例えば86年の統計を見ると、荒川(53)、東日暮里(34)、西日暮里(29)の順。いずれも同胞が多く住む所だ。
しかし、ここ10年ほどは、同胞業者の数はめっきり減ったという。
「昔は仕事場にミシン1つ入れて、せっせと作ったものです。しかし昨今、不景気で仕事がないうえに、アジアから安い品物がどんどん入ってくるので、維持するのは並大抵ではないと思います」
ある同胞はつぶやいた。
(文聖姫記者)