わがまち・ウリトンネ(40)/横浜・中村(3) 金南珠
床下に隠したタッチュ、60年代まで一般的な話/
結婚直後、夫を無理やり日本へ
金南珠さん(83)が日本に渡ってきたのは1940年、24歳の時だ。日本に先に渡っていた夫に呼ばれて、子供を連れて来た。
「私が夫と結婚したのは33年4月21日、17歳の時です。その3日後に夫は日本への渡航を余儀なくされました」
金さんは当時のことを思い出すと、今でもくやしさがよみがえってくるという。その日、村の役人が日本の憲兵と共に結婚式を祝うとの口実で家にやって来た。
「彼らは夫を酔わせて、日本に働きに行くとの文書に無理やり署名、捺印させたのです。翌日、夫は記憶にないと猛反発しましたが、どうすることもできませんでした。夫が実家に帰ってきたのはそれから4年後のことでした」
しかし1年も経たずに金さんの夫は、生きる糧(かて)を求めて日本に再び渡る。その数年後、福島県にいるとの手紙がきた。
「それを頼りに私も渡日したんです。8.15の解放は福島で迎えました」
金さん一家が中村トンネに引越してきたのは、54年頃だった。知人を頼ってきた。
当時の同胞たちの生活について、金さんはこう語る。
「どこの家でもタッチュ(どぶろく)を造って売っていました。巡査がトンネを見回りに来ると、タッチュは床の下に隠しました」、「なぜか、捜査が行われる日時が事前に伝わってくるんです。それでも私は4回ほどつかまりました」、「『朝鮮人はみな国に帰れ』と言うんですが、その都度、『誰が無理やりつれてきたんだい。私の夫もだまされ、半強制的に連れてこられたんだ』と言い返すんです」、「巡査には『誰に売ったのか』とも聞かれました。あまりしつこいので、巡査の顔を見ながら、『あなたみたいな顔の人だったな…』と言ったら、机を思い切り叩かれたこともありました」
タッチュの製造は、60年代までは一般的な話だった。
金さんは、今と昔を比べて、多くのことが変わったと振り返る。
例えば、結婚式もその1つだ。
「今の若い人たちはりっぱな結婚式場を借りて、盛大にやりますね。昔は自宅や町内会の事務所、公民館などで、昼頃から夜遅くまでやったもんです。料理といっても、野菜をふんだんに使ったチヂミが主流で、肉などはありません。女性がその輪の中に入ることなど当然、許されませんでした」
チャンチなどの祝いごとがあるたびに、女性たちはその支度に追われた。今でも金さんは、地域の青年たちが集まると聞けば、チヂミなどの朝鮮料理を作り、振る舞っている。女性同盟の分会長を長年努めた金さんは、今でも年配の同胞宅などを訪ね歩くなど、多忙な毎日を送っている。「気持ちはまだ青春時代です」と微笑んだ。
(この項おわり=羅基哲記者)