亡国・解放・分断そして統一へ
朝鮮半島の20世紀―――C
民族自主か外勢力依存か
反米反独裁、民主化のたたかい
社会主義建設 朝鮮は、自立的民族経済をめざし、重工業を優先的に発展させ、農業と軽工業を同時に発展させる政策をとった。資材、資金、労力が不足するなかでも、「千里馬運動」(57年〜)で国民の力を結集、経済を大きく躍進させ、70年11月の朝鮮労働党第5回大会で社会主義工業国化を宣布するに至った。 一方、資本主義列強の干渉から国を守るため、62年からは経済建設と国防建設を同時に進める「併進路線」をとった。80年代には、社会主義の完全勝利のために第3次7ヵ年計画を打ち出した。 祖国統一問題にも大きな力を傾け、60年に連邦制を提唱したのをはじめ、72年は7・4共同声明、80年には高麗民主連邦共和国創立方案、84年には米と北南朝鮮による3者会談を提議した。 戦後の南朝鮮政権は「反共」「勝共」を史上命題とし、民主主義的な要素をすべて封じ込めた。 米国の後押しで政権についた李承晩は、永久執権を果たすため、54年に憲法を改悪、五八年には新国家保安法を通過させ、民主的な人士を投獄した。その後もあらゆる不正を動員して4選をもくろんだが、デモ参加中に催涙弾に倒れた高校生、金朱烈くんの死が引き金になり、60年の4・19人民蜂起によって退陣に追い込まれた。 しかし、独裁政権を打倒したのもつかのま、61年には統一を恐れた米国の支持のもと、朴正煕が軍事クーデターで政権を掌握した。32年におよぶ軍事独裁の始まりだった。「反共」体制のもとで、あらゆる政治活動が固く禁じられ、民衆は沈黙を強いられた。すべての政治活動は地下に潜伏した。 当初から政権の正統性がなかった朴正煕は、経済発展、近代化で政権を維持しようとした。そして、それに必要な資金と技術を導入するため、「日韓条約」を通じて日本から経済協力金を獲得。植民地支配に対する日本の責任を一切棚上げにし、民族の前に大きな禍根を残した。ベトナム派兵も米国から資金を得るためのものだった。 75年には北に関係したとする「民青学連事件」をねつ造、8人に死刑を宣告し翌日死刑を執行した。恐怖政治は絶頂に達していた。 79年10月に朴正煕が側近に射殺された後も、朴の腹心である全斗煥、盧泰愚がクーデターを起こし、それに反対してたたかった光州市民を虐殺した。軍の動きを黙認、放置した米国に対する怒りが噴出したのはこの時期である。 87年6月、全国的な反独裁闘争が沸き起こった。「護憲撤廃」「独裁打倒」―。ついに民衆は、大統領直接選挙によって民意を問うことを政権に約束させた。いわゆる盧泰愚の「民主化宣言」である。 そして、93年には金泳三政権が発足。初の文民政権と評価されたが、盧泰愚、金鍾泌ら軍部政権と合流した点や、同族である朝鮮を吸収統一しようとした点では、既存の執権者と何ら変わりがなかった。 解放後の南は独裁政権の歴史であったと同時に、民主主義を自らの手で勝ち取った民衆の輝かしい歴史でもあり、それは外勢との闘いの歴史でもあった。(張慧純記者、おわり)
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