互いを知る「心の窓に」
コラム「私の会った人」を終えて
約1年3ヵ月にわたって連載してきましたコラム「私の会った人」をひとまず、終わります。約60回にわたり日本各界の人々を紹介しました。多くの人たちの朝鮮を語る熱い思いが伝わったでしょうか。人と人を結ぶのはいつの時代にあっても、友情や信義だと思います。私たちもまた隣人との理解を深めながら、新世紀を迎えましょう。
◇ ◇ 出会った日のことを懐かしく思い出す。コラム「私が会った人」のシリーズで紹介した多くの人が今年亡くなった。三浦綾子、黒田清、丸木俊、中村百合子、宇都宮徳馬の各氏ら…。素晴らしい仕事をなしとげ、人々の胸に鮮烈な記憶を残して去っていった。 その中でも忘れられないのはジャーナリストの黒田清さんのこと。最初の出会いは、読売新聞を退社して、黒田ジャーナルを創刊したばかりの頃だった。12年前の8月。大阪、気温は33度。その日、奈良の取材先から大阪の黒田さんの事務所に着いたのは、約束時間の直前だった。全身から汗が吹き出す。そんな私に黒田さんは「まあ、冷たい麦茶でも一杯どうぞ」とさりげない気配り。 思えば、この出会いが初めの1歩だった。それから黒田さんを通じて色々な人との出会いが生まれた。チマ・チョゴリ事件が頻発した時には、在京のジャーナリスト五十人ほどを緊急に集めて、この事件について話す機会を設けてくれた。あの時の怒りの激しさと素早い行動力。記者はただ書くのだけではなく、周囲を動かし、社会を変革する力を持たねばと思い知らされた。 東京、大阪を往復しながらの激務とストレス。そんな黒田さんに病魔は容赦なかった。肝臓ガンに冒されていたのだ。大手術に耐え、1年後に復帰した。その直後には、東京で開かれた「従軍慰安婦」問題の国際シンポジウムのパネラーとして参加してもらった。ふっくらとした体型は細くなったが、柔和な面立ちはそのまま。戦争法案の新ガイドラインを非難しながら、「新たな戦争をしかけようとする勢力と闘わずして平和を獲得することはできない」と変わらぬ力強い口調だった。 しかし、3年後の今年夏、黒田さんは帰らぬ人になった。葬儀には黒田さんがいつも気にかけていた「弱者」や「差別されている」人々が、流れる涙も拭かずに焼香の列を作っていた。人は一生の間にこんなにも多くの人を励まし、慕われるのかと私はその時、実感したのだった。 振り返れば、様々な人たちと出会った。在日同胞に、良質な日本人の朝鮮への思いを伝えることができただろうか。コラムを通して互いを理解する「心の窓」の役割を担えるようにと願った。「心の窓」が開いてこそ、お互いの姿を正しくとらえることができる。そんな日朝の架け橋になれれば、このシリーズの果たした役割も小さくなかったかも知れない。ご愛読ありがとうございました。(朴日粉記者) ◇ ◇ 道浦母都子さん 三國連太郎さん 鵜飼哲さん |