亡国・解放・分断そして統一へ
朝鮮半島の20世紀―――A

民族抹殺、自主性奪う

過酷な日帝の植民地支配
抗日武装闘争で解放勝ち取る


武力盾に不法締結

 朝鮮半島の20世紀は、まさに民族存亡の危機が迫るなかで幕を開けた。19世紀末、欧米列強に肩を並べようと脱亜入欧に必死だった日本は、幕末からあった「征韓論」を実現に移し、朝鮮の植民地化を図った。

 日本は1875年9月、朝鮮西海岸沿いの江華島に軍艦を侵入させ、76年には武力を背景に不平等な江華島条約を強制締結させた。1905年11月7日には「乙巳保護条約」を強制締結して朝鮮を「保護国」とし、さらに10年8月22日には武力を盾に「韓日合併条約」を強制的に調印させ、朝鮮を完全な植民地とする。

 この間、朝鮮の民衆は激しく抵抗した。様々な反日運動が起き、各地で義兵団が組織された。しかし、当時の支配階級は、強大な武力を持つ日本の前に膝を屈し、国を売り渡した。そしてこんにちまで朝鮮民族は、失われた自主性を回復するためにたたかい続けることになるのだ。

略奪、搾取、弾圧

 日本は強大な権限を持つ朝鮮総督府を設置し、軍隊と憲兵警察で朝鮮民衆を押さえつけ、政治、法律、経済、教育のあらゆる分野にわたって支配を強めた。

 朝鮮全土の土地を調査し、田畑や山林を奪った。多くの会社、銀行、鉱山、漁場なども日本人経営者の手に渡った。また、皇民化政策を推進して朝鮮民族の抹殺を図った。「皇国臣民の誓い」の暗唱や神宮参拝などを強要し、学校での朝鮮語使用、朝鮮語の出版、音楽、朝鮮の歴史研究などをすべて禁止。創氏改名を実施して名前まで奪った。

 さらに37年から中日戦争、41年から太平洋戦争と戦争を拡大するなかで、「後方基地」朝鮮への支配をいっそう強化。物資、資源を根こそぎ奪い取るだけでなく、朝鮮人の労働力も搾るだけ搾り取った。

 朝鮮各地に作った軍需工場や鉱山はもちろん、日本国内にまで強制連行して牛馬のように働かせた。このようにして日本に強制連行された朝鮮人の数は約600万人に上る。一方、23万人以上の朝鮮青年が「皇軍兵士」として、15万人以上が軍属として戦場に駆り出された。また「従軍慰安婦」として戦場に送り込まれ、性奴隷生活を強いられた朝鮮女性は約20万人にも達する。

独立へ不屈の抵抗

 激しい弾圧にも屈せず、朝鮮人民は抵抗のたたかいに立ち上がった。農民たちは小作争議を、労働者は鉱山や工場でストライキを起こした。19年には、延べ1000万人が各地で半年にわたり激しいデモ行進などを繰り広げた3・1独立蜂起が、29年には全朝鮮で5万余人の学生が立ち上がった光州学生事件が起きた。

 国外でもたたかいは広がっていた。19年4月、上海では亡命した民族主義者らによる臨時政府が樹立された。中国東北部では民族主義者らによる反日独立軍がたたかっていた。

 なかでも目覚ましい活躍をしたのが、金日成主席を中心とした朝鮮共産主義者グループだ。主席は26年に初の共産主義革命組織、「打倒帝国主義同盟」を結成。30年代に入ると、新たな反帝反封建民主主義革命路線、主体的な抗日武装闘争路線を示し、32年には現在の朝鮮人民軍のルーツとなる抗日人民遊撃隊(34年からは朝鮮人民革命軍)を創建する。36年には反日民族統一戦線組織「祖国光復会」も結成する。

 遊撃隊は、中国東北地方の幅広い地域に解放区(遊撃根拠地)を作りながら抗日武装闘争を繰り広げ、日本軍に大きな打撃を与えた。とくに37年6月4日には初めて朝鮮国内の普天堡で大きな勝利を収め、日本軍を震え上がらせると共に朝鮮の民衆を力づけた。また祖国光復会は国内に下部組織を広げ、大衆的な抗日闘争を発展させてい 
く。

 日本は37年に中日戦争、41年には太平洋戦争に突入したものの、戦況は泥沼化の一方だった。そして45年8月、朝鮮人民革命軍各部隊はソ連軍と共に朝鮮国内へと進撃。15日、日本は無条件降伏し、朝鮮は半世紀に及ぶ植民地支配から解放された。(韓東賢記者)

人民に頼って抗日戦争を
金日成主席

自獣のような「皇軍」兵士
元「慰安婦」の張秀月さん

  われわれは国権も、領土も、資源もすべて奪われた亡国民の息子たちだ。今は他国の領土で間借りをしている赤手空拳の青年だ。しかし、われわれは日本帝国主義者にためらいなく戦いを挑んだ。

  何を頼みにしたのか?

 人民に頼って抗日戦争を始めようと決心したのだ。人民が国家であり、人民が後方であり、人民が正規軍だ。戦いが始まれば、全人民が兵士となって立ち上がるであろう。だから、われわれが始める遊撃戦は人民戦争だと言える。

(一九三一年十二月、抗日武装闘争に向けた方針について同志たちに語る金日成主席。回顧録「世紀とともに」より)

「慰安所」は共同便所のような形の建物だった。ようやく2人が横になれるくらいの狭さで、畳を敷いた部屋には番号と娘の名前が張り出されていた。「慰安所」の主は「お前は五号室だ。今日からお前の名前は照千代だ。朝鮮語をしゃべると殺してしまうぞ」と言った。

  最初それは工場の寮で、そこから工場に通うのだろうと思って いたが、それが甘い考えにすぎなかったと悟り、日本人にだまされてもう故郷にも帰れなくなったと悔やんで泣いてばかりいた。

  …到着した翌日から「皇軍」の兵士たちが列を作って襲いかかった。反抗すると、首に軍刀を突き付け、「朝鮮のアマめ、殺してやる」と脅かし、獣のように飛びかかった。

(証言当時71歳、平壌市在住。「従軍慰安婦」・太平洋戦争被害者補償対策委員会編「踏みにじられた人生の絶叫」より)

日本語版TOPページ