それぞれの四季
自分の言葉で
李錦玉
大人ってどうして、あんなに話すことが多いのだろうか。どうしてあんなに長く話せるのだろうか。子供は、大人の話の輪の中に入ることは絶対タブーだった。父や母のひざにもたれて話の内容は理解できなかったが、人々の話す言葉がまるで魔法のように聞き取れ、その表情に見惚れながら、寝入ってしまったらしい。気がついたら父の背中におんぶされて暗い夜空に星が無数に光っていた。私はまた眼を閉じて、父の背に揺られて家路についた。同胞たちの何かの集まりがあったのだろう。はるかなおぼろな記憶のひとこま。
「ヤンチョル」とニックネームで呼ばれるおじさんがいた。ヤンチョルとはブリキのことである。小太りの赤ら顔にくりくりした大きな目と太いまゆ。ブリキをたたき鳴らすようなけたたましい大声。おじさんが姿を現しただけで、ざわめきが起きた。いや姿よりもその破れブリキを鳴らす音が彼の訪れを予告した。おじさんが口を開くとどっと笑い声がはじけ、つっこみが入り、それを受けておじさんが投げ返すという風に、小気味のよい時間が人々の心の隙間に滑り込んだ。 異国に渡ってきて決して幸せではなかった在日同胞の中にあって、ユーモアあふれる楽天的な会話をつむぎだして、人々にいっとき笑いの渦を巻き起こした「ヤンチョル」おじさんは、その後どうなったろうか。 大人の会話に憧れていた私は、電話は手短かに用件だけを明確に話す世代で育った。今、会話を楽しむ時間だけは、たっぷりのはずだが――。せめて、透明水彩画のようなまやかしのない自分の言葉で話したいと思っている。(童話作家) |