在日朝鮮人の20世紀A

民族教育――差別政策とのたたかい


朝鮮学校閉鎖令直後に弾圧を

受ける愛知朝聯守山初級学校


学校閉鎖から再建、法人化

 民族教育の権利保障を求めるたたかいは、その実施直後から始まった。

 朝鮮学校は、解放(1945年8月)直後の「国語講習所」を経て、46年9月から全国各地に6年制の正規の学校として開校された。しかし、それもつかの間、日本を占領していたGHQ(連合軍総司令部)の指示により、日本政府は同胞を日本人に同化させるため48年1月、朝鮮学校の閉鎖をもくろむ「通達」を全国の知事あてに出した。

 同胞らはすぐさま反対運動を展開し、同年4月24日には兵庫県下の同胞らが県知事に、「学校閉鎖令」の撤回を約束させた。この日を記念して「4・24教育闘争」と呼ぶわけだが、GHQによる同日の「非常事態宣言」公布によって、約3000人が検挙・投獄され、無残にも16歳の金太一少年が射殺された。

 そして日本政府は49年10月、「朝鮮人学校閉鎖令」を一方的に通達し、すべての学校を閉鎖に追い込んだ。その結果、朝鮮学校は日本の公立分校などの形態で運営せざるを得なくなった。

 しかし、総聯の結成(55年5月)を契機に、同胞らは朝鮮学校の自主運営に乗り出し、68年4月に朝鮮大学校が認可を獲得したのをはじめ、75年11月までにすべての学校が学校法人として認められるようになった。

JR割高通学定期券の解決

 朝鮮学校は、日本の学校教育法上の「1条校」ではない、各種学校との理由によって、様々な制度的差別を受けてきた。

 通学定期券もその1つで、日本学校生徒に比べて割高に設定されていた。

 この問題を解決するきっかけになったのは87年、千葉初中に子どもを通わせるあるオモニの素朴な疑問からだった。

 「税金は日本人と同じように払っているのに、これはおかしい。差別だ」

 差別是正を求める全国的な運動へと広がり、94年1月には各地の朝鮮学校オモニ会代表らが同胞や日本市民らから集めた署名(60万人)を連立政権だった社会党運輸部会やJR各社に提出。日本市民らの支援も盛り上がり、同年4月からは、朝鮮学校生徒も日本学校生徒と同じ「差別のない」定期券を持って通えるようになった。

スポーツ全国大会への出場

 朝高が日本のスポーツの全国大会に出場できるようになったのは94年からだ。

 90年春、インターハイ予選を兼ねた女子バレーボール大阪府大会1次予選を大阪朝高チームが勝ち抜いた後で、「資格なし」と出場を除外されたことが発端だった。

 これが世論の反発を呼び、朝高の高体連(全国高等学校体育連盟)加盟、全国大会への参加を求める朝・日市民らの声が高まった。

 この声に押されて高野連(日本高等学校野球連盟)が91年1月、外国人学校に特別措置として予選への参加を認めた。

 93年11月には高体連が各種・専修学校に対して、94年度からのインターハイ(全国高校総合体育大会)参加資格を与え、96年までには高体連主催のすべての競技大会への参加が可能になった。ボクシングや重量挙げなどで全国制覇を果たした。しかし、高体連への加盟はいまだに認められていない。

国立大学受験否定などまだ残る課題

 現在も朝鮮学校に対する差別は残る。それは@朝高出身者に対する国立大学への受験資格を認めずA各級朝鮮学校出身者に受験を認めていない国家資格が存在しB朝鮮学校への私立学校経常費助成などの教育助成が成されずC朝鮮学校への寄付金を税法上の損金として扱うことができない、などに整理できる。

 朝高出身者の大学受験資格については、200近い公・私立大学が朝高卒業生が「(日本の)高等学校を卒業した者と同等以上の学力がある者と認められた者」(学校教育法56条1項)に該当するとみなし、受験資格を認めている。

 朝鮮学校に対する教育助成については、「日本における学校教育に準ずる教育を行なっている(滋賀県)」と、地方自治体が独自の判断で各種名目で補助を実施している。

 だがその額は、日本学校生徒と比べると数倍から数十倍の格差がある。朝鮮学校生徒の父母が日本国民と同じく納税の義務を果たしている以上、日本政府は少なくとも私学並みの助成(高校生1人当たり年間約28万円、中学生同約25万円、小学生同約13万円、97年度の全国平均)を朝鮮学校に実施すべきである。

 こうした朝鮮学校への様々な差別は、日本政府が朝鮮学校を「1条校」に準ずる処遇を行なうことによって、初めて解決が可能となる。(羅基哲記者)

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