近代朝鮮の開拓者/女性(3)
李一貞(リ・イルジョン)
李一貞(1877〜1935年)両班の家庭に育ち、愛国烈士となる李儁と結婚。国債補償婦人会に参加して目覚める。1907年初め、屋敷を売って初の婦人商店を始める。また女子にも近代的教育を、と運動を展開する。 |
「婦人商店」設立 女性の自立を促す/烈士・李儁の夫人 李一貞は、ハーグ密使事件で有名な李儁の夫人である。1907年、オランダのハーグで第2回万国平和会議が開かれるや、高宗は日本が強要した「韓日保護条約」の無効を列国に訴えようとして李儁など信頼する使者3人を送った。が、この会議は結局、各国が平和を口にしながらも互いに侵略を認めあう帝国主義者の外交場にすぎず、李儁らの発言は許されなかった。ついに李儁は抗議のすえ自決するのだ。その後、夫人の李一貞はどのように生きたのだろうか。 ◇ ◇ 両班の家の娘として苦労も知らず育った李一貞であったが、開化期に新設された法官養成所で学んだ後、漢城裁判所の硬骨の検事補として活躍する李儁と結婚することになる。彼女には、これまで考えもしなかった新しい苦労が次々と飛び込んでくる。 李儁が官僚たちの悪事をビシビシ暴き、ついに免職、次いで独立協会に加入して評議長として活躍するや、政府に追及されて日本に亡命を余儀なくされる。 彼は数年後、帰国したのち親日派の一進会に対抗する共進会の会長として、政権の確立と国民の権利と義務について政府に建議するが、これが原因となり再び拘束され、その後も「乙巳五賊」を糾弾した「罪」で島流しになるのだ。 このような激動の時代に生きる夫を支え、2児を育てながら、李一貞は「女性といえども必ず独自に生活できる経済的な基盤がなければならない」と悟るのである。 ◇ ◇ 1907年の初め、李一貞は夫の同意を得て、これまで住んでいた屋敷を売り払い、ソウル安国洞の道路に面して「婦人商店」を開店する。家事に必要な生活必需品を扱う、女性を店主とする最初の商店である。 それまで小間物を行商する女性はいたが、女性が店主となって店をかまえる前例はなく、まして両班の婦人が商店で物を売る「いやしい仕事」につくとは、前代未聞の事であった。 李一貞は、それまでの封建的な常識を破り、堂々と商店を経営し、しだいに進出してくる日本の商店と対抗しながら事業を進め、利益の一部を日本に留学する学生の奨学資金として寄付するのであった。 そればかりではなく、李一貞をはじめとする両班婦人たちは愛国啓もう運動に促されて女性にも近代的な教育をと、1906年に「女子教育会」を組織し、良妻賢母を育成する養閨義塾を後援するのだ。子供たちも後を継ぎ、抗日運動の闘士として立派に育っていった。(金哲央、朝鮮大学校講師) |