東アジア国際学術討論会の報告から

原三国時代の土器と窯の系統

崔秉鉉・崇実大学校人文大学史学科教授


 東アジア国際学術討論会「2000年前の東アジア」(11、12日・主催=大阪経済法科大学アジア研究所)で南の崔秉鉉氏(崇実大学校教授)が発表した「韓半島原三国時代の土器と窯の系統」の報告(要旨)を紹介する。

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 原三国時代とは、紀元前後から300年頃までをいう。その時代の土器には、打捺紋(叩き文)土器と中島式無紋土器という、大きく2つの技術的類型があり、これらは紀元前100年前頃、漢江流域に出現する。

 打捺紋土器の系統については、中国戦国時代の土器の影響説と漢―楽浪土器の影響説に分かれる。

 中島式無紋土器は、胎土と成型法は青銅器時代以来の無紋土器と同様であるが、主な機種である外反口緑ンホと怨型土器は、従来の無紋土器とは器形上、異なっている。一方、中部地方の原三国時代の住居跡には、竈に長い烟道が付いたトンネル形の爐跡が出現している。しかし、これら打捺紋土器と無紋土器・外反口緑甕、トンネル形の爐跡は、遼東半島の鉄器時代遺跡である撫順・蓮花堡遺跡、尹家村・高麗寨遺跡、清川江流域の寧辺・細竹里遺跡、大同江上流の北倉・大坪里遺跡でも、一部がそれぞれ発掘され始めている。

 これらの事実は、紀元前300年前後、古朝鮮と戦国燕の衝突の過程において、戦国の鉄器文化がこの地域に波及して成立したものと判断される。一方、これまで発掘された原三国時代の土器窯跡としては、忠清北道鎮川三龍里・山水里窯跡群が代表的である。

 同じ構造の窯跡は、中国では山西省襄汾県で、二里頭文化・東下馮類型に属する「灰坑」として1基報告されている。日本では、兵庫県出合遺跡で1基調査された。これらの構造は、中国の新石器〜戦国時代の横穴式昇焔円窯に近い。

 つまり、このような構造の窯跡が北中国から細竹里―蓮花堡類型文化期に遼東へ、そしてそれ以降に朝鮮半島へと伝わったと考えられる。

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