東アジア国際学術討論会
「2000年前の東アジア」

朝鮮社会科学研究者報告


 大阪経済法科大学で行われた東アジア国際学術討論会(歴史学・考古学)「2000年前の東アジア」()では、北南朝鮮、中国、台湾、ロシアなどの学者10人がそれぞれ論文を報告、発表した。その中から、朝鮮の学者2人の報告(要旨)を紹介する。゙喜勝・朝鮮社会科学院歴史研究所室長は、吉野ヶ里遺跡から出土した絹が朝鮮の三眠蚕糸で織られているという立場から、朝鮮の古代絹と弥生文化について言及している。韓錫鳳所長は、日本でも関心の高い邪馬台国についての歴史考察を行った。

邪馬台国の位置と性格
韓錫鳳/
朝鮮社会科学院法学研究所所長

 邪馬台国問題は日本の古代史だけでなく、初期の朝・日関係史の研究において提起される重要な論点の1つだ。弥生文化時代に存在した邪馬台国は、朝鮮と深い関係を持っていた。

 日本の歴史学会は長い間、邪馬台国の位置の問題について論議を深めてきた。それによると、大きく「九州説」と「近畿説」に分かれる。

 「九州説」は「三国志」に基づいている。もちろん「九州説」にも肥後菊地山門説、豊前宇佐地方説などいろいろある。最近では吉野ヶ里遺跡の発掘により、「九州説」がいっそう有力になってきた。朝鮮の歴史学会は、邪馬台国が北九州に存在したと見ている。それは朝鮮と無関係の国ではなかったと見るからだ。

 邪馬台国が存在した3世紀は弥生文化時代であった。弥生文化の胎内から発生・発展した邪馬台国は、弥生文化の影響を多く受けたはずだ。

 周知のとおり、弥生文化は朝鮮の農耕文化から深い影響を受け築かれた。したがって、邪馬台国もそのような角度から考察されなければならない。

 「三国史記」(新羅本紀」では、邪馬台国の卑弥呼が新羅をはじめとする朝鮮の様々な国と使節の往来などの接触を不断に続けてきたことが示されている。同時に、邪馬台国が日本列島の近畿地方に存在したのではなく、朝鮮と海を1つ隔てた地域、つまり九州地方に存在したということも示唆している。

  なぜなら、西部日本を統合することも出来なかった邪馬台国が、近畿地方に存在したとは到底思われないからだ。3世紀の社会経済的な水準と権力の段階からすれば、その当時に日本列島が統合されていたはずはない。

 邪馬台国は北九州に存在し、それは朝鮮の古代奴隷所有国家だった辰国(三韓)、馬韓の強い影響を受けて成立した小国家だったと思われる。馬韓の人々は海を越え、日本列島に少なからず進出・定着した。日本列島に馬韓の小国が存在したことは、「宋書」倭人伝にも記録されている。

 日本に渡った馬韓の人々は様々な遺跡や遺物を残したが、そのうちの代表的なものが吉野ヶ里遺跡だ。

 その遺跡では2300余個の単独の墓が発掘され、特定の王族級の墓も判明された。

 また北九州一帯は単独墓が集中してある地域で、玄界灘に面した糸島半島、博多湾沿岸、春日市、太宰府市、筑後市、朝倉町、神崎町一帯など朝鮮と最も近い海岸、またはその海と連なる平野の丘陵地帯に展開している。

朝鮮の古代絹と弥生文化
゙喜勝/
朝鮮社会科学院歴史研究所室長

 今から2000年前、日本は弥生文化の時期だったが、その文化は朝鮮の影響によって発生、発展した農耕文化であったというのが特徴である。衣食住の重要な文化的構成要素の絹織物も朝鮮人が伝えた。日本には長い絹の歴史があるが、絹織物の生産は日本列島で自然に発生したのではない。

 弥生絹の繊維断面と断面完全度についての研究調査によれば、弥生絹には華中系統と朝鮮の楽浪系統の2種類があるという。とくに吉野ヶ里遺跡のンホ棺墓から出た絹は、楽浪系統の高級絹だ。これは実験検査から、朝鮮の三眼蚕の糸で織られた絹であることが判明した。吉野ヶ里自体、早くから日本に渡ってきた朝鮮移住民集団の遺跡だと推測されているだけに、遺跡の朝鮮系統C棺墓から朝鮮絹が出土したのも当然と言える。

 楽浪系統の絹は20世紀に入り、平壌市楽浪区域を中心に多数発見された。これらを鑑定してみると、中国・漢の「経綿」とは異なる、朝鮮固有の三眼蚕から採った糸で織り上げた絹布であることが分かった。日本蚕学界でいう「朝鮮三眼」「韓三眼」「古来三眼」と言われる蚕がまさしくそれである。

 これらは、中国系統のものではない。「三国志」(魏志韓伝)の弁辰條によると、朝鮮人が「蚕桑を知っており」とある。ここに出て来る記録の大部分は、紀元前時期の辰国の状況を伝えるもので、基本的に中国人との交流がひんぱんではなかった時期のことである。こうして見ると朝鮮半島の人々は、2000年前よりかなり以前から自分で絹布を織って身に付けていたことがわかる。

 日本の学界が朝鮮の平壌楽浪で出土した絹を中国系統の絹と見なすのは、司馬遷の「史記」に出てくるいわゆる「箕子朝鮮」に根拠を置くためだ。そこには、箕子が中国から出て来る時、養蚕技術者を連れてきたと記している。このような箕子東来説については、信ぴょう性のないことが明らかになって久しい。

 「日本書記」(巻10応神14年2月條)では、百済王が裁縫工真毛津(まけつ)を日本に派遣し、彼が日本の衣服製作の先祖になったとある。

 また「新纂姓氏録」の「太秦公宿禰」條には、朝鮮から渡った秦氏らが金・銀・珠・絹などを献じたのみでなく、養蚕を行って絹を織り、献じたとある。この内容は「古語拾遺」にもあり、絹織機を「はたおり」(秦織)というのも秦氏に由来するという。朝鮮と朝鮮人が古代日本文明に果たした大きな肯定的役割は、一目瞭然である

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