近代朝鮮の開拓者/科学者(5

元洪九(ウォン・ホング)


 
人・ 物・ 紹・ 介

 元洪九(1888〜1970年)水原農林学校を卒業して、母校に残り、のち開城の松都高普の博物学教師に。朝鮮鳥類の分布と生態研究で知られ、のち金日成総合大学教授。「朝鮮鳥類誌」全3巻などにより世界的に有名となる。

鳥類学の研究を体系化/分断を超え鳥が結ぶ親子の縁

 元洪九は、わが国が旧韓末の古い社会から西洋文化を受容し始める激動の開化期へと向う1888年の生まれである。基礎教育を終えて水原農林学校で学ぶが、優秀な成績を認められて、卒業後、母校の教師となり、間もなく第1回の日韓留学生として鹿児島高等農林学校に留学することができた。

 ここで、さらに深く動物学と植物学を学んだ彼は、自ら作った亜熱帯および熱帯植物の標本2000種を持って帰国した。

 1915年の夏のことであった。彼は、これらの標本を整理しながら、水原高等農林学校で博物学を教えながら、朝鮮の動植物、とくに鳥類の種類とその生態を明らかにしたいという望みを固くして行く。その後、1919年から開城の松都高普の教員となってから、積極的にこの地方の動植物の標本収集にとりかかり、当時学生であった石宙明などに大きな感化を与えた。

 こうして、1926年には、開城地方を中心に動植物を収集して、学校にかなり充実した博物館を作りあげることができた。

 1931年から、平安南道の安州公立農学校に転勤してからは、朝鮮に住む鳥類に的をしぼり、その分布と生態を調査し、はく製を作って行く。夏の休暇を利用しながら、彼の調査活動は南は済州島から、智異山、金剛山、白頭山に及び、1934年には朝鮮鳥類416種の目録を発行することができた。

 すでに末の息子のビョンオも育ち盛りで、父に従い鳥に関心を持ち、後に南の代表的な鳥類学者となるのである。しかしながら時代は太平洋戦争の末期で、40年に咸興の永生高女の校長になった彼には研究の自由も、朝鮮語を話す自由もなくなっていた。

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 1945年8月。待ちに待った解放。46年10月には平壌の総合大学創建にあたり、彼は生物学の教師に推薦される。彼はこれまで作ってきた鳥類三百点を含む標本をすべて学校に寄付し、48年には大学内に生物科学館を作りあげることができた。しかし、これらの成果も50年6月に勃発する朝鮮戦争によって消失するばかりか、彼の家族も南北に分断されてしまう。

 1963年6月、息子のビョンオがソウルで足輪を付けて放ったシベリアムクドリが翌年五月、平壌で父によって発見され、世界の話題となった。

 しかし親子の対面はできぬまま、父は70年、83歳の生涯を閉じるのである。(金哲央、朝鮮大学校講師)

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