書評
人間観、芸術観などを集約/金正日著「人間の証し」
今年の8月、訪北した南のマスコミ代表団に金正日総書記は、わたしは政治家でなかったら、映画監督になっていたでしょうと、語ったと伝えられている。 総書記のそういった考え方や思想とはどんなものなのか、朝鮮とはどんな国なのかを知るうえで待望の文献が出た。 総書記の著作「映画芸術論」を抄訳した本書が、まさにそれである。書記時代の1973年に著した原著は、大きくわけて@生活と文学A映画芸術論B芸術と創作論の三部構成になっており、500ページを超える大部の作品だ。本書はそのうちの@を中心に編み直したものだ。 「映画芸術論」の冒頭で「文学は人間学である。生きた人間を描き、生きた人間に役立つところに文学の本性がある」と、総書記が語っているように、本書はたんに映画芸術を論じたばかりでなく、人間の生き方そのものをも論じている。そこには総書記の人間観、芸術観、国家観などがすべて集約されているといっても過言ではない。 社会的存在としての人間の本性に関する問題は、いうまでもなくチュチェ思想によって解明されたのであるから、従前の、文学は人間を描く芸術であるという理論は、一般論としての意味はあるが、人間の本性の規定に基づいて、どのような人間をどのように描くかという創作上に効用のある文学の本質論にはなり得なかったといえる。 したがって人間学としてのチュチェ思想が解明した人間の本性に基づいて、この時代、とりわけ日進月歩の速度で発展している科学技術の時代を生きる人間の問題を、真の人間学の観点から解明することができるのである。総書記が指摘しているように人々が主人公である生き方に共鳴することのできる文学・芸術が求められているのだ。中でも、最先端をゆく分野である映画は芸術革命の強力な武器であると言える。 本書では、文学の本質論から始まって創作方法のディテールに至るまでを論じつつ、個性的である人間をリアルに描くにはどうしたらいいか、作品の核となる種子(チョンジャ)を発見するにはどうしたらいいかなどが論述されている。(舜) 【卞宰洙訳、発行=同朋舎、発売=角川書店、2000円+税】 【日本評論社、2200円+税】 「朝鮮半島は全土が『博物館』である」 南でベストセラーとなった本書の中で著者はこう指摘した。「朝鮮半島は国土全体が博物館だ」。朝鮮は狭い国土の中に同じ血筋と言語をもって、長く見積もれば7、8000年、短くても3000年の歴史をもっている。したがって、わが国では、どこへ行っても有形、無形の文化遺産に出会うことになるのだ。 著者は愛情と情熱を持って、多忙な中を、中年のおばさんを引き連れ、老若男女を案内し、美学科の大学院生と共に、南の隅々まで、ある所には10数回も巡って紀行文をまとめあげた。 当の文化遺産に対する事前の調査を徹底して行なった著者は、「李朝実録」、「東国輿地勝覧」、「増補文献備考」、李朝文人の詩文集、さらには日帝時代の日本人御用学者や良心的な人士の報告、開化期から現代に至る文学者の作品など、全精力を費やして調査と解明に勉めてきた。 踏査記の第1章は、全羅南道の康津と海南。その昔、隠遁者が落ち延び、罪人が流されて行った平凡な田舎である。これを著者は「南道踏査一番地」と呼びたいと言っている。現代詩人の金永郎(1903〜50年)の生家から茶山・丁若繧フ流刑の地、茶山草堂をたどり、山間の寺々を訪れる過程を詳述している本文を見れば、その理由はわかるだろう。そして、カヤ山、慶州、聞慶へと踏査は佳境に入っていく。 Uに含まれている「吐含山石仏寺」の「その栄光と汚辱の履歴書」、「石窟の神秘に挑戦した人びと」を読むと、何か目からウロコが落ちるような気持ちとなるのではなかろうか。わが古代人の信仰心の深さ、それを石窟に具体化するための高い科学技術に基づく周到な設計と芸術性。その後の日帝の時期に行われた「補修」と称するコンクリートによる取り返しのつかない新たな破壊。著者の解明する栄光と汚辱の履歴書は、われわれに現代的な新しい課題を提起している。著者は、実は北への踏査を実現し、今後、「踏査記W」として翻訳出版されるという。われわれも愛国愛族の名文家による全朝鮮踏査記を持って現場に行ける日も近いのだ。(哲) 【T=大野郁彦訳(4300円+税)、U=宋連玉訳(4300円+税)、法政大学出版局】 |