文学散策
叙事詩「火縄銃のうた」/許南麒
「火縄銃」に託された
祖父と父と子の願い
ジュヌア、 おまえは いま 銃をみがいている、 おまえは いま 東学(トンハク)の乱と 己未年(つちのとひつじのとし)万歳事件との二つの乱を おまえの祖父と おまえの父とにつかえた その さびだらけの銃、血と涙と汗につかり 風と雨と土くれの中で過ごしてきた 祖父さんとおとうさんのただ一つの形見、 その 火繩銃をみがいている、 ◇ ◇ 許南麒の長編叙事詩「火繩銃のうた」(1951年)は、祖父から父へと受け継がれた、ただ1つの形見である火繩銃を手に祖国の自由と独立のために戦う若者(ジュヌア)の勇姿をうたった作品である。 「朝鮮の、多くの悲しい妻と、母と、娘たちにおくる」との小見出しのついた叙事詩は夫と子を戦場に送り、今また最愛の孫(ジュヌア)を火繩銃とともに戦場へ送る祖母の物語でもある。 1894年、東学の乱(甲午農民戦争)に身を投じた祖父、1919年、己未年万歳事件(朝鮮独立万歳を唱えた人民蜂起)に参加した父、そして祖国のため、虐げられた人々の幸せを勝ちとるため、勇敢に出で立つ主人公。 愛する祖国と民族のためにおしみなく青春を捧げる親子3代の命をかけた戦いをテーマにした叙事詩は、今まさに砲火高らかに鳴り響く戦場へ向かうため、血と涙と汗に浸された火繩銃を磨くジュヌアにスポットを当ててうたわれている。 敵が射(う)ちだすカービン銃や機関銃にはかなわぬとしても、銃が射ちだす弾丸の一つひとつには祖父の恨み、父の恨み、そして母と祖母の3代をかけた朝鮮女性の恨みも込められている。 その積もり積もった恨みを晴らすがために立ち向かう主人公の手に力強く握られた1挺の火繩銃こそ、祖国と民族に対する熱烈な愛、不屈の闘志、侵略者に対する憎悪と復讐をつぎ注いだ朝鮮の英雄的な戦いのシンボルなのである。 叙事詩は次のように結ばれる。 「おまえは 勇敢にいでたつがいい、/この祖母は、おまえを送り/夜ごと この地の山という山、/夜ごと この地の峯という峯に/星よりも 美しくかがやく/あの狼火を おまえと思い、/この三代続けての/この地の夫の家、この地の子の家、/そして この地の女の家を/おまえが帰るその日まで/祖国が勝つその日まで/いつの日までも守りつづけよう、/…ジュヌア、/ああ あたしのジュヌア!」 許南麒は、作品を通じて涙ではなく微笑みを浮かべて夫と子を、そして孫を見送る朝鮮女性の強じん性をあますことなくうたいあげた。 ◇ ◇ 詩人は朝鮮戦争(1950〜53年)の最中、朝鮮の1詩人としての誇りを胸に「火繩銃のうた」のほかに作品集「巨済島」を発表し、世界の人々にその戦争がわが祖国を守る正義の戦いであることをアピールし、米軍が巨済島で犯した野蛮な行為を暴露した。2篇の作品は彼の詩人としての良心と作家としての立場をはっきり示した意義深いものであった。彼は詩集のあとがきに「わたくしの詩人としての経歴の浅さと力量のなさから予定の効果を発揮することができなかったような気がする。もしそうであれば、詩をもって祖国解放戦争の戦列に参加している若者の1人として、わたくしはこの上なく他の戦士達に対して済まないことだと思う」と記した。 だが、1951年日本語雑誌「人民文学」に発表された叙事詩は大きな反響を呼び、後に朝日書房(51年)、青木書店(52年)にて次々に単行本として出版された。そして88年には南朝鮮で「ファスンチョンウィ ノレ(火繩銃のうた)」という題名で翻訳出版された。 ◇ ◇ 詩人は1918年に慶尚南道で生まれた。39年に渡日。日本大学芸術学部で文学などを学ぶ。解放後に結成(45年10月)された「在日本朝鮮人聯盟」で文化活動などに励む。 総聯が結成(55年5月)された後も在日本朝鮮文学芸術家同盟結成(59年6月)にともない、委員長に就任。約30年間、在日朝鮮人文芸運動の先頭に立って活躍した。後に総聯中央副議長の要職につく。 金日成主席と金正日総書記から共和国最高人民会議代議員の栄誉を受ける。88年に逝去。 代表作・シナリオ「われわれには祖国がある」(66年)、献詩「讃歌」(62年)、詩「洛東江」(76年)などをはじめとする優れた作品は今も同胞たちに深く愛されている。(孫志遠、朝鮮大学校助教授)=終わり |