近代朝鮮の開拓者/科学者(3)
都相禄(ト・サンロク)
都相禄(1903〜90)咸興に生まれる。旧制六高から東京帝大物理学部に進む。卒業後、松都高普で物理を教えながら独自に量子力学を研究。日本の敗戦とともに京城(ソウル)大学の改革を進め、また金日成総合大学創建にも寄与する。 |
物理学の発展に情熱/金日成総合大学創立に寄与
近代朝鮮の物理学の発展に大きな寄与をしながら、金日成総合大学の創建にあたっては、物理数学部長として、大きな役割を果たした人が都相禄である。 ◇ ◇ 都相禄は、1903年に咸興で生まれた。かつて「祖国」という雑誌に「科学を目ざす青年の歩み」(1965年8月号)という手記を発表しているが、それによると、彼は少年の頃から登山が好きで、金剛山の万物相に登り、その雄大で美しい景色に感動し、祖国の山河を愛する熱い心を紀行文にして友人に見せたところ、よく書けているとほめられ、次第に文章を書くのが好きになったという。 また、朝鮮の歴史を勉強していく中で、李舜臣将軍が開発した亀甲船の建造には物理的原理が正しく応用されていることを知り、深く驚いて、これが物理学を志す契機となったという。 しかし、朝鮮での専門学校への進学は諦めねばならなかった。3・1運動に参加した者には進学の途が閉ざされていたからである。家で野良仕事をしながら機会を待ち、目立たない地方都市岡山にある第6高等学校(旧制)に入学することができた。ここで数学と外国語(英・独・ロ)の勉強に全力を傾け、同時に自然科学の基礎と自分の専攻する量子力学の研究に情熱を集中した。そして東京帝大物理学科に進学、30年に卒業とともに失業。仕方なく大学の図書館で働きながら、専攻分野の文献と雑誌の収集に努めた。これが帰国後の独学の大きな資料となった。 ◇ ◇ 帰国後、彼は開城の松都高等普通学校で物理を教える。世界的な昆虫学者・石宙明も生物学を教えていた。ここで都相禄は余暇の全てを利用して「ヘリウム化水素イオンに対する量子力学的取扱い」という論文を完成させた。 論文は、その独創性と質の高さを認められて日本数学物理学会の欧文会誌である「日本数学物理学会記事」第22巻(1940年)に掲載され、「朝鮮に都相禄あり」との認識を与えたのである。 45年、日本が敗れるや、ただちに彼は有志と共に京城(ソウル)帝大の改革に着手し、講義はその年11月3日には開講できた。その時、彼は理工学部長。北の総合大学創立のために金日成将軍直筆の招待状がとどく。彼は直ちに北に向かい、大学創立準備委員会の1人として活躍。自ら物理学部長として、その後は民族幹部の育成に努力する。(金哲央、朝鮮大学校講師) |