シドニー五輪統一の熱気に包まれて

競技場、選手村、観客席で
一つになった民族


 20世紀最後を飾るにふさわしい史上最多199の国と地域、約1万余人のアスリートが参加したシドニーオリンピックの開会式で、南北朝鮮選手団は劇的な同時入場行進を行い、「朝鮮はひとつ」を世界にアピールした。大会期間中、南北朝鮮選手らは、6・15南北共同宣言発表後、急速に和解へと進む朝鮮半島情勢を反映するかのように競技場、選手村などで交流を深め、同じ民族であることを確かめ合った。

「義兄弟」の再会

 9月12日、オリンピック選手村に近いリージェンツパーク練習場。試合を4日後に控え調整に余念のない北の柔道選手たちの陣中見舞いに、南の柔道男子チームの朴鐘学監督と同女子チームの金道俊コーチらが訪れた。

 「パンガプスムニダ」

 練習場は、緊迫したムードから一転、和やかな雰囲気に変わった。久々の対面に握手をかわす彼らは旧知の仲だ。選手時代も含め、数多くの大会で幾度も顔を合わせてきた。

 聞くところによると、朴監督と北の男子柔道パク・ジョンチョル監督は「義兄弟」の間柄なのだが、いつもあいさつを交わす程度で、親交を深める機会と十分な時間は与えられなかったという。

 詰めかけた報道陣の注文に応じてポーズを取る南北の両柔道関係者の表情には、こわばった姿も作り笑いもなかった。あったのは、これからは手と手を取りスクラムをがっちりと組んで統一チームを作り、柔道発展のために力を尽くすことが可能になったという喜びだった。金道俊コーチは「統一チームが実現し、北の選手を指導することになればコーチ冥利に尽きる」と胸を躍らせていた。

肩組んで大合唱

 大会期間中、観客席も統一熱気に沸いた。柔道、アーチェリー、レスリングなど、南北の選手が共に出場した競技には、日本やソウルから駆けつけた同胞、また地元の在豪コリアンたちが多数詰めかけ、熱いエールを送った。

 なかでも9月17日、ケ・スニが出場した柔道女子52キロ級の試合が行われたシドニー展示ホールは400人以上の応援団で埋まった。

 「チャルハラ、チャルハラ(フレー、フレー)、ケ・スニ」

 白地にスカイブルーの朝鮮半島、「2000シドニーコリア応援団」、「One Korea, win  Sydney」という文字がデザインされたお揃いのTシャツを着た応援団は、チャンダンのリズムに合わせ、割れんばかりの声援を送った。またケが試合に勝つと決まって「われらの願い」、「アリラン」の大合唱。肩を組みながら体を左右に揺らして歌う彼らの姿に、ニューヨーク・タイムズの記者は「まるで幻想を見ているようだ」と言った。しかし、記者にはそれが元来の姿だったに違いないと思えた。

 「共同応援団の熱い声援に、わが民族はひとつであり、決して二つに別れて暮らすことのできない民族なのだということを強く確信しました」

 3位に甘んじ、悔し涙を流しながらも応援団には笑みを浮かべて深々と一礼したケ・スニの言葉を、すべてのコリアンが率直に受け取ったのではないだろうか。「われわれは、すぐにでもひとつになれる」と。

血は水より濃い

 開会式で見せた南北選手団の笑顔、そして選手村での交流は、共同宣言発表後、和解へと進む南北の現在を象徴するものだった。

 北と南の選手が滞在した選手村の宿舎は、30メートルほどしか離れていない。南の選手が宿舎から一番近い食堂へ行くには必ず北の宿舎の前を通らなければならない。選手らは互いに顔を合わせてはあいさつを交わし、雑談を楽しんだ。

 開・閉会式で共に統一旗の旗手を務めた南の鄭銀順選手(女子バスケットボール)は、「まるで兄弟、姉妹と話をしているようだった。もしスポーツで南北がひとつになったらきっと世界最強になれる」と語った。姜建旭選手(男子ホッケー)も「次のアテネには、ひとつのチームで出場しなければならない。われわれはもともとひとつなのだから…」と、統一チームの実現に期待を寄せていた。

 北側選手団のユン・ソンボム団長と南側選手団の李相哲団長は大会期間中、何度も相互の宿舎を訪問し、今後のスポーツ交流に関して意見を交換した。来年、大阪で開かれる予定の世界卓球選手権大会と東アジア大会で南北が協調していくことも再確認したという。

 10月2日、帰途に着く直前の南側の李相哲団長ら一行が北側選手団を訪ねてきた。空港に直接向かおうとしたが、どうしても名残惜しく、北側選手団のユン・ソンボム団長にあいさつをしにきたのだった。彼らは別れを惜しみながら抱擁し、再会を固く約束した。ユン団長は笑顔で、年配の李団長の姿が見えなくなるまで見送っていた。

 南北同時入場行進で幕を開け、統一旗のもとに閉幕を迎えたシドニーオリンピック。競技場で、選手村で、そして観客席で、朝鮮民族はひとつになった。

 「民族の血は水より濃い」。あたりまえのように使われていたこの言葉の意味を、身をもって体験した取材だった。(千貴裕記者)

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