暮らしの周辺
哀れなジコチュウたち
自宅から駅まで、公園の中や、農協の側を通る。そこには毎朝、コンビニで買って食べちらかした跡らしい、大量のゴミが散らかっている。夜遅く、帰宅する時、そこで10代の少年たちがラジカセをボリュームいっぱいに上げて、踊っている姿をよく見かける。ゴミはその少年たちが散らかしているのだ。
ある日の朝、卵が投げつけられ、ゴミが散乱した農協の自動ドアの前に、2人の少年が寝転がっていた。踊り疲れて、そのまま眠ってしまったらしい。少年たちの親は何をしているのだろう。子供に無関心なのか。 彼らにおそらく罪の意識はない。自分たちが散らかしたゴミを誰かが片付けていることへの後ろめたさもない。彼らにとってゴミを捨てるのは、自然な行為なのだ。電車の中でも少年たちは平然と物を食べ、その包みやジュースの缶を当たり前のように捨てる。大声で話し、狂ったように笑う。足を組んだり、広げて、座席を占領する。そのまま床に座りこむ。小学生もそれを見習っている。 いつからだろう。少年たちが傍若無人、厚顔無恥な行為を抵抗感なくやり始めたのは。自己中心型、自己完結型の少年が増えていることは間違いない。彼らを見ていると怒りと恐怖を覚える。同時にそういう行為でしか自己を表現できないことが、哀れでもある。彼らは大人や社会のコピーなのだから。殺伐化した物質社会はジコチュウを増殖させ、人間の心をもガンのようにむしばんでいく。(趙) |