語り継ごう−20世紀の物語/申玉順さん
玄界灘の船上で消えた小さな命,悲しみは癒えず
通称・三河島朝鮮マーケット。上野、浅草と並ぶ東京・下町に住む同胞たちの台所である。
中でも創業50年になろうかという、東京の総合朝鮮食品販売店の第1号店、「三河島・マルマンのオモニ」と言えばこの界隈で知らない同胞はいない。女性同盟荒川支部西日暮里分会顧問の申玉順(78)さんが、その人。「テジョン(大正)11年。済州道の西帰浦で生まれたのよ」と語る流ちょうな「チェジュマル(済州道の方言)」からは、在日1世が歩んだ歴史の一端を垣間見ることができる。
解放後、在日同胞にとって最も混乱した時期から6人の息子たちを立派に育てあげた今では15人の孫に囲まれ、幸せに暮らす。
手塩にかけた店も数年前から長男と6男に任せ、きままなご隠居の身だが、そこは一生を身を粉にして働いたハルモニ、店に顔を出しては何かと精を出す。
干し明太と唐辛子で始めた朝鮮食品店
申さんの人生にも、他の在日1世の女性たちと同様、筆舌に尽くし難い苦労が刻印されている。3つの時父親を亡くし、遠方に働きに出た母親に代わり、一緒に暮らした叔母と、済州道と大阪を行き来した。
大阪で故高元玉氏と結婚したのは、20歳の頃。広島に原爆が落とされたのを機に、日本は危ないと思って、姑と3歳の子と共に臨月間近のおなかを抱え、故郷済州道に向かった。当時、船と言えば、「ポンポン船」のこと。20〜30人も乗れば、座って足も伸ばせないすし詰め状態になる。設備も衛生も悪いなか、玄海灘の荒海の上で1週間以上揺られる。悪天候で大きな波に呑まれ、ひっくり返されてしまうこともあったと言うから、健康な人でも苦難を強いられる命がけの旅だった。「何日目だったろうか、おなかの子が突然動かなくなったのよ」船上での死産だった。「海に葬ろうとも思ったわ。でも、故郷に連れて帰ってあげなくては」と思い直し、やっとのことで亡くなった子を布でくるみ、釜山を経て辿り着いた故郷済州道の地に埋めた。数ヵ月後には、連れ帰った幼子も栄養失調で亡くしてしまった。
「色々苦労はしたけれど、こんな辛い体験はなかった。どんな時代でも我が子を失った母親の苦しみは変わらない」
それからしばらくして再び大阪に戻った。3人目が生まれた喜びもつかの間、心臓が弱かった子はまたも彼女のもとから去ってしまった。そんな堪え難い思いを味わって、やっと現在の長男を授かった。しかし、当時の大阪は敗戦の混乱で、食べていくすべがない。そこで東京ならと、あてもなく今の地にやって来た。
雨露をやっとしのぎ、同胞たちが何とか寄り添って暮らしていたという長屋の4畳半1間。生きるためにできることは何でもやった。子を失った悲しみ、ままならぬ生活の苦しみを酒で紛らわしてきた夫もリヤカーを引き、鉄くずを集めながら、東京中を歩き回った。身重で幼子を抱えた玉順さんも、夜を徹して内職をし、生計を支えた。
そんな時、夫が大田区蒲田にあるミョンテ(干明太)とコチュカル(唐辛子粉)商売をしている場所に偶然通りかかった。これにヒントを得て、鉄くず集めのついでに少しずつ仕入れたミョンテとコチュカルを狭い玄関先に置いたミカン箱の上に並べるようになった。口コミで聞きつけた同胞たちが立ち寄るようになり、そのうち買い物に来ていた精肉解体場の日本人業者に勧められて置いた豚肉も飛ぶように売れた。また、済州道を行き来する人たちも甘鯛などの魚類を置いていくようになった。品数は日ごとに増え、同胞たちが求めるものをできるだけ揃えた。終日店頭は客でごった返すようになり、「朝鮮食品店マルマン」が立ち上がった。
「夜中の12時、1時まで豚の毛を剃ったり、ゆでたり、早朝からは漬物や惣菜類の仕込みをしました。人を使っても間に合わなかったわ」と述懐する。
「ウリハッキョにさえ行かせれば心配なかった」
「6人の子供たちをどう育てたか、分からない程だった。とにかく釜に御飯、鍋にスープだけはたっぷり作って置いた。ちゃんとお腹に入ったかどうだか、誰が食べて誰が食べてないかなんてわかったもんじゃない。子供の教育は、とにかくちゃんとウリハッキョにさえ行かせておけば心配ないと信じていたのよ」。無我夢中の毎日だった。何の身よりもなく出てきた東京でやっと土台を築きあげたと思われた1960年代の半ば頃、夫まで逝ってしまった。申さんは43歳、末っ子はまだ3つだった。不安が心をよぎったが、思い返すといつも間近には苦楽を共にする同胞らがいて、何よりも頼もしい組織があった。
幼い頃から、申さんをヌニム(姉さん)と慕い、その生き方を目の当たりにしてきたと言う荒川区に住む、ある同胞(66)は「昔から口数が少ないし、とても素朴な人です。だけど、祖国を愛する気持ちは人一倍強いですよ。先祖を敬い、民族の風習を愛し、同胞を愛し、いつもさりげなく地域や学校のために尽くしてきた。だから2度と国を失ってはいけない、同じ苦労を子孫が繰り返してはいけないというのが、ヌニムの口癖です」とその人柄を語る。
息子やそのつれあいたちはそれぞれ朝鮮総聯支部や商工会、青商会、女性同盟の専従、非専従として活動している。
「もうのんびりしてほしい」と子供たちは願っているが、目の黒いうちはと、息子たちが預かる店先で、監督を怠らない。老いてますます意気軒昂。典型的な在日の「肝っ玉オモニ」の風情であった。(恵)