近代朝鮮の開拓者/芸術家(3) 羅惠錫(ラ ヘソク)
羅惠錫(1896〜1946年)水原郡守の家に生まれる。ソウル女子高普卒業後、東京女子美専に入学。22歳の時に帰国。25歳の時にソウルで個展を開く。27〜29年、世界一周旅行へ。帰国後離婚し、各地放浪の後、46年に死亡。 |
最初の女性西洋画家/海外の近代画風を習得
1921年3月、ソウルの京城日報社のロビーで開かれた羅惠錫の個人展は、大きな話題となり、西洋美術に関心をもつ人ばかりでなく、絵画に全く関心のない人々も好奇心をもって多数の人が押しかけた。
それは、ソウルで開かれた最初の西洋画展であること以上に、その画家が東京女子美術専門学校を卒業して帰国した、わが国最初の女性西洋画家であったからである。
フランスの印象派的な美しい色彩と大胆な構図を学んできた彼女は、18年に卒業して帰国すると、初めての女性画家としてソウルの貞信女学校などで画の教師として勤めると共に制作にも打ちこんでいた。
ところが19年3・1独立運動が起こると学生たちと共に、運動に積極的に参加し、日本の警察に逮捕されてしまう。
この時、彼女は、熱心に弁護してくれた弁護士の金雨英と恋に落ちる。数ヵ月の獄中生活から解放された彼女は金と翌年に結婚、長女をもうけ、安定した家庭環境の中で制作に励んだ。また、文芸誌「廃墟」の同人としてエッセーや詩を発表するなど、新しい時代の「新婦人」、女性解放の旗手として周囲の人々から注目を浴びた。
個人展は大成功であった。その後、高羲東や金観鎬らと共に書画協会に参加し、また「朝鮮総督府」が組織した朝鮮美術展覧会にも出品を続けていった。その後、夫が日本の外務省の安東駐在副領使となるや、23年から27年まで安東に居住しながら制作を続けた。
外務省は金雨英の多年の外地駐在のボーナスとして、夫妻に世界一周旅行の機会を与えてくれた。夫妻は、まずパリに行った。羅惠錫は美術世界の中心地であるパリで、美術研究所に通い、ピカソやマチスも大きな影響を受けた野獣派といわれる画風の洗礼も受けた。豊かな収納品をもつ美術館めぐりも欠かさなかった。
我が国の画家として、誰にも恵まれなかった人生の幸福の絶頂期に悲劇の種子が宿されるのである。3・1運動の発起人33人のうち、最も積極的だったとされる崔麟が国内の監視を避けてパリにやって来て、彼の歓迎会で2人は会うことになったのだ。
羅と崔はたちまち意気投合し、パリに住む同胞たちも彼女を「崔麟の情人」と噂をするようになった。これを知った金雨英は帰国後、彼女と離婚する。
時代はまだ彼女を受け入れてくれなかった。ついに失意と孤独の中、誰一人見取る者もなく、彼女はソウルの慈善病院で死んでいくのである。
(金哲央、朝鮮大学校講師)