清津市で発見された日本軍「慰安所」と関連した報告書(要旨)
「従軍慰安婦」・太平洋戦争被害者補償対策委員会
「従軍慰安婦」・太平洋戦争被害者補償対策委員会が23日に発表した、清津市であった日本帝国主義による性奴隷的犯罪の一端について明らかにした真相調査報告書の要旨は次のとおり。(朝鮮通信)
最近、咸鏡北道清津市青岩区域芳津洞(解放前は鏡興郡豊海面芳津里)などで、日本軍が朝鮮占領中に設置、運営していた「慰安所」と、彼らによって虐殺された「慰安婦」の墓が発見された。
日本は1938年7月、芳津とコジンに「羅津方面日本海軍特別本拠地」を設け、多くの兵力を配置した。主な部隊は、羅津憲兵隊、第1船舶輸送司令部北鮮支部、船舶通信隊、船舶歩兵隊、第39陸上軍部隊、関東軍補給監部、大陸鉄道司令部など。
日本はこれらの部隊のために30年代中盤、「豊海楼」「銀月楼」という海軍専用の「慰安所」と性病検診所を設けた。「慰安所」の設置場所は部隊駐屯地から約1.5キロメートルほど離れた谷間(現芳津洞23人民班地帯)であった。当時の目撃者、南グヒョンさん(79)によると、「豊海楼は38年、元関東軍所属の軍属が海軍基地から資材の供給を受けて建てた。銀月楼はそれ以前の30年代中盤、日本の建設業者が建設した」と言う。
現在、建物の内部構造は若干変わったが、外部は基本的に当時のままである。
両「慰安所」は元関東軍所属の軍属が経営していたが、監視と統制は羅津憲兵隊の分遣隊が行っていた。
「慰安所」を使用していたのは「羅津方面日本海軍特別本拠地」駐屯の海軍と憲兵らであったと証言する申ラクチョンさん(69)は、「毎週水、金、日曜日に兵隊らが船に乗って上陸し、慰安所に集団で行っていた」と振り返る。
また「慰安婦」に対する検診は、毎週火曜日、海軍基地にいた軍医が来て、検診所で行われていたと崔クジョクさん(84)は語る。
「慰安所」は通常、午後2時から6時までは兵士と下士官、八時から翌朝までは将校らが出入りしていた。彼らが上陸する日、「慰安婦」らは1日平均30〜40の軍人らの相手を強いられていた。
「慰安婦」らの平均年齢は15〜20歳の朝鮮女性で、彼らの大部分が江原道をはじめ南側から、「職業斡旋」「女子勤労挺身隊」「金儲け」などと言葉巧みに連れてこられた人たちだった。「豊海楼」には約25人、「銀月楼」には20人程度が収容されていた。
彼女らは到着したその日から朝鮮名を奪われ、「はるこ」「はなこ」「よしこ」「きよこ」などと呼ばれ、朝鮮語の使用や外出、手紙のやりとりを禁じられた。このような動物以下の性奴隷生活に絶え切れず、南春子という朝鮮女性が逃亡を試みて失敗し、憲兵に逮捕され、拷問によって死亡した。
遺体は放置されたままだったが、その後、南グヒョンさんをはじめ住民らがこれを発見し、明け方、憲兵らの目を盗んで死体をこっそり埋めた。彼女の墓は今も残っている。
最近、「慰安所」が発見されたのに続いて、703人の女性が軍「慰安婦」として東南アジア各地の日本軍の戦線に、分散配置されたという事実を記した「朝鮮軍司令部」の文書が公開された。
日本軍による「慰安婦」問題は、日本政府が深い罪の意識のもとで直接責任をもって解決しなければならない国家的な問題であり、法に基づいた賠償、補償問題として処理されるべき問題である。
現在、被害者と遺族らはむろん、国連をはじめとする国際機関と人権団体では、日本に対する法的責任を追求するとともに、国家的な謝罪と補償を求めている。