朝鮮学校の場所(6)/日本の学校制度
「各種学校」で差別合法化/時代遅れの同化政策転換を
朝鮮学校は、大学受験資格や助成などの面で「1条校」に準ずる処遇を求めてきたが、文部省は「各種学校」だからという理由でそれを拒み続けてきた。いわゆる「1条校」と専修学校、各種学校の3種に分類される日本の学校制度は、独自のアイデンティティを育む教育を行う外国人学校に対する配慮が微塵もないどころか、そうした学校に対する差別を合法化するシステムだと言える。これまで幅広い現実の中に潜む矛盾点を見てきた。最終回ではその本質を明らかにし、「朝鮮学校の場所」=位置づけを改めて問う。 (東)
「外国人学校法案」の挫折
1947年に制定された学校教育法は、戦後の日本の学校制度の根幹を定めた法律だ。同法が「1条校」、専修学校、各種学校をそれぞれ規定している。
しかし当初は、「1条校」とそれ以外の各種学校、の二本立てだった。75年に各種学校の一部を格上げする形で専修学校が生まれたが、実はその経緯と朝鮮学校差別は密接に絡んでいる。
66年、日本政府は外国人学校の統制権を文部省が一元的に掌握する形で規制強化を図る外国人学校制度の創設を打ち出した。これを盛り込んだ「学校教育法一部改正案」は、従来の各種学校制度を分離し、「専修学校」と「外国人学校」を新設する形になっていた。
前者が多様な教育の振興を図るという保護策であるのに対し、後者は、主に朝鮮学校の弾圧を図るという政治的な狙いを持った敵視策だった。その前年の65年12月には、「朝鮮人としての民族性または国民性を涵養することを目的とする朝鮮人学校」は「1条校」どころか各種学校としても認可すべきではないとの文部次官通達が各都道府県に出されていた。
同法案は単独の「外国人学校法案」などに形を変えながら7回にわたって提出されたものの、前代未聞の外国人学校敵視政策だとの圧倒的な世論に押され、すべて廃案となった。その後、専修学校新設案だけが生き残り75年に制度化。以来、現行の「1条校」、専修学校、各種学校という体制が作り上げられた。
専修学校と「1条校」の連携
しかし、専修学校新設にともない改定された学校教育法は、専修学校を「わが国に居住する外国人をもっぱら対象とするものを除く」と規定して外国人学校を排除、各種学校の枠に閉じ込めた。その時まですべての朝鮮学校は、65年通達にもかかわらず独自の判断をした各都道府県から各種学校としての法的地位を得ていた。朝鮮学校敵視策は、専修学校と各種学校の「分断」という制度に形を変えて存続が図られた。
その証拠に専修学校の格上げが進み、とくに「1条校」との連携面での差別化が図られた。まず85年から高等課程で文相の指定した課程の修了者に大学入学資格が付与され(現在8割が指定)、さらに今年度からは一定の基準を満たした専門課程修了者の大学編入学も可能になった。
多摩大学のグレゴリー・クラーク学長は雑誌の対談で「日本は政治的に朝鮮人学校を認めたくないからすべての国際学校を認めないという態度だ」と語ったが、文部省国際教育室は97年、「健全な日本人を育てるという文部省の立場からすれば、朝鮮人同胞を育てるのが目的の朝鮮人学校は日本の公益に資するとは思えない」と公言している。
日本政府は、その一部に過ぎない朝鮮学校を抑圧するために、各種学校をまるごと相対的に格下げする現行制度を作ったと言えよう。
日弁連は法的措置提言
日本弁護士連合会は昨年2月、朝鮮学校などの外国人学校を各種学校の枠で縛り、制度的差別を加えて言葉と文化を保持する教育を妨げている日本政府は「重大な人権侵害」を犯しているとして、差別的状況を速やかに解消するよう勧告した。
勧告のもととなった調査報告書は、日本政府は外国人学校の最低基準を法定し、それを満たす学校の卒業生については各種の資格を認め、助成に関しても「1条校」と同等に行うべきだと提言した。そのために必要とされる法的措置が、60年代に制定を図った規制・弾圧型ではなく、保護・権利尊重型のものになるべきなのは言うまでもない。
日本の戦後処理や在日外国人問題に詳しく、外国人学校卒業者の国立大入学資格を求める運動でも先頭に立ってきた一橋大の田中宏教授は「言語的・文化的な独自性を柱とする学校にも学校としての市民権を認めるべきだ。日本に住むなら日本の学校へ行くべきだと、現行制度に合わない子供を無理やり同化させようとする画一的な教育が当然と考えてきた発想を早く転換する必要がある」と指摘する。
その発想の根底には、同化と排除を使い分けてきた日本政府の在日朝鮮人政策が横たわっているが、それが時代遅れなのは明らかだ。(おわり)