知的障害者の成人施設「あゆみの里」/神戸市
神戸市西区にある知的障害者の成人施設「あゆみの里」は1993年4月、市内や近隣地域に住む障害児の親たちの手で設立された。神戸市須磨区に住む呉淑蓮さん(54)も、メンバーの1人だ。設立の運動は、「子供により良い環境を」という親としての当然の思いから生まれたが、社会に根深い知的障害者に対する偏見の壁にも阻まれ、着想から実現まで10年を要した。呉さんらが歩んだ道程は、こうした境遇の人々が「人間らしさ」を追求することが、いまだ容易でないことを示している。(張)
共通の悩み
「どの学校に送るべきか」「良い治療法はないか」など、障害児を子供に持つ親が共通して抱える悩みは多い。中でも最も切実なのは、「自分たちが死んだら、この子はどうなるのか」というものだ。
呉さんには、重度の知的障害を持つ長男の高相哲さん(25)がいる。相哲さんがまだ朝鮮学校の初級部に在籍していたころ、県内にある知的障害者の成人施設は、すべて見て回ったという。しかし、テレビやタンスすら備えていない施設もあり、プライバシー保護も十分とは言えなかった。
「利用者の表情が暗く、温かく家庭的な雰囲気を感じられなかった」
およそ15年前、呉さんをはじめ、行政が開く「神戸市情緒障害治療教室」に通う母親らは、こうした問題について真剣に話し合う中で、「いっそ自分たちで施設を作ろう」と思い立った。そして87年に、20余人で「あゆみの里設立準備会」を結成。呉さんは副代表を務め、同じ須磨区に住む今岡幸子さん(現在は施設長)が代表になった。
冷たい目
繁雑な手続きを必要とする社会福祉法人認可の取得、資金と用地の確保、運営方法の研究と、施設設立の課題は山積していた。
用地を確保し、建物を建てるためには、日本政府や地方自治体からの補助以外に1億円を集める必要があった。会員ら自身が出資し、足りない分はバザーなどの収益で補った。
最大の難問は障害者に対する社会の冷たい目だった。障害者施設を建てるには、当該地域の自治会の同意書が必要になる。しかし、準備会が当初、建設を希望した市内某所では、地元住民の猛反対にあった。「山奥にでも行けば」「(地域の)子供に何かあったらどうする」など、心ない電話もかかった。
近くの団地には300戸が入居していたが、すべてが反対に回った。福祉関係の仕事に携わっていたり、日本の小学校で、障害者と健常者がともに学ぶ学級を担任した人もいた。障害者への理解を促すべき立場の人までが、冷たい仕打ちに加わる理不尽さに、「大きな挫折感を味わった。お金を集めるより、人々の意識を変えることの方が大変だと思った」(呉さん)。
呉さんらは、周囲の偏見に屈しないよう障害者問題についてより正しい認識を身につけようと、勉強に励む一方、一般の人々にも理解を訴えながら、講演などに励んだ。同時に新しい用地を探して回りやっと現在の立地を見つけ、住民からも承諾を取り付けた。92年にはついに社会福祉法人の認可も下りた。
広い理解を
「あゆみの里」には現在、10代から50代まで約40人が暮らしている。相哲さんも4月から、まずは施設に慣れるため自宅から通う「通所部」に入った。
普通の施設のような完全な入所型と異なり、週末には家に帰り、家族とともに過ごせる。各部屋にテレビがあり、生活リズムをできるだけ家庭生活に近付ける努力がなされている。他の多くの施設では破損防止のために食器に合成樹脂などを用いているが、ここでは敢えて陶器を用いている。
障害者を特異な存在とみなして施設特有のアブノーマルな生活に押し込めれば、アブノーマルな習慣を育て、風変わりな人格をつくってしまう。利用者に普通の生活を保障して彼らの成長を助けるべき――。
「あゆみの里」が、運営の原則としている考え方だ。
「障害者だって人間であることに変りはない。困難の前で挫けなかったのは、子供らに人間らしい生活をさせたかったから」だと、呉さんは話す。相哲さんを育てて来た経験から、環境さえ整えば、「障害があっても、この子はこの子なりのペースで学び、成長できる」との確信もある。
呉さんは、同胞障害者の家族の集まりであるムジゲ会の活動にも注目しているという。
社会の偏見や、健常者の価値観の押し付けから障害者を守り、彼らの本当の成長を助ける努力は、今はまだ、家族をはじめとする一部の人の間から生まれているに過ぎない。呉さんは、一般の人の間に障害者への理解が、より広がることを願っているという。