民族大団結で統一へ/90年代の歩み(10)
老父母訪問団・芸術団交換提案(1992年5月6日)
南が「核問題」持ち出し決裂
南北高位級会談第7回本会談(1992年5月6〜7日、ソウル)では、北側から老父母訪問団・芸術団の交換が提案された。祖国解放47周年を契機に、双方の老父母、芸術家、記者・随行員からなる訪問団を平壌とソウルで同時に交換しようというものだ。南北双方の合意に従い、赤十字間で8回にわたり協議が重ねられたが、南側が「北の核問題」や米・南合同軍事演習の強行など人為的難関を持ち出して協議を妨害。実現目前で交渉は決裂した。
基調報告に立った北側団長の延亨黙総理は、91年12月13日に採択された南北合意事項が実際に履行されていることを南北の同胞に実感させるための特例措置として、元朝鮮人民軍従軍記者・李仁模氏の送還、文益煥牧師や林秀卿さんら訪北人士の釈放、訪問団交換を提案。これらが実現されれば、南北間に和解の雰囲気があふれ、平和統一も早まるだろうと語った。
南側もこれに応じ、6月から8月まで計8回、南北赤十字実務会議が板門店で開かれた。第2回会議(6月12日)では交換日時を8月25日から3泊4日とすることなどで合意。第6回会議(7月20日)では総規模を241人、名簿交換総数を130人とすることなど、実務的な詰めも行われた。
しかし、事業を何とか実現させたいという北側の努力に対し、南側は事業を意図的に流産させようと、会議で様々な人為的難関を持ち出した。
北側は、人道問題である李仁模氏送還問題を訪問団交換に先立って実現するよう一貫して主張してきたが、南側は「会談とは別個の問題。人道問題とは関係ない」と主張、送還問題を棚上げした。
さらに、南当局と与党・民自党は第2回会議直後の6月20日、党政会議で「南北相互核査察が実現しない限り、すべての南北交流を留保する」とし、反北宣伝を大々的に展開。交換を行う8月後半に、対話相手に反対するフォーカスレンズ米・南合同軍事演習を計画するなど、露骨な反北対決姿勢に出た。南側は8月7日の第8回会議で一方的に「交換事業の流産」を宣言、交渉は決裂した。
これに対し、朝鮮赤十字会中央委員会は翌8日の声明で、交渉決裂の責任は全面的に南当局とそれに追従する南赤十字にあり、これは南北合意書履行と南北関係を遮断する意思の表れだと非難した。
訪問団交換は実現されなかったが、李仁模氏はその後、本人と家族の要望、国際世論の高まりを受け、93年3月、約40年ぶりに家族の元に帰還することとなる。