わがまち・ウリトンネ(36)/神奈川・川崎(5) 金三浩


米兵相手にガムやタバコ売る/焼肉発祥の地の一つ

 現在、神奈川県には約3万2000千人の同胞が暮らすが、うち約9000人が川崎市に生活の基盤を置いている。とくに川崎市の南部、川崎区池上新町、池上町、桜本、浜町、鋼管通、渡田東町などの京浜工業地帯の一角に集中している。

 中でも桜本には、最も多くの同胞が住む。かつて中留とも言われたこの地域には、戦時中、京浜工業地帯の軍需工場で働く日本人従業員たちの社宅が並んでいた。

 同胞はその周辺のバラックに住み、主に土木業などに従事していた。日本の敗戦後、社宅に住んでいた日本人が帰郷して空き家となった場所に多くの同胞が移り住んだ。川崎朝鮮初中級学校も、その一角にある。

 桜本の西側に隣接している浜町3、4丁目には、「セメント通り」と呼ばれる通りがある。新川通りから産業道路までの約800メートルの間に、戦時中、浅野セメントの通勤路だったことからこう名付けられた。今は「KOREA TOWN」とも呼ばれ、焼肉屋が立ち並ぶ。

 解放(1945年8月15日)直後から川崎に住む金三浩さん(67)は、「焼肉は在日の文化の1つです。川崎も発祥の地の一つなんです」と力説する。

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 メモ : 川崎区は焼肉屋が多く並ぶ地域だ。その原点はホルモン焼きにある。日本の敗戦後、「朝鮮人に食わせる米はない」(当時の吉田茂首相)との発言に象徴されるように、日本の戦後復興策は日本人中心に行われ、在日同胞は無視された。同胞の生活は民族差別と直面し、困窮をきたした。それから抜け出すために、当時日本人が食べなかったタダ同然の牛の内臓、ホルモンを朝鮮風に味付け、「ホルモン屋」を始めた。これが焼肉屋の前身である。

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 「焼肉は今、日本人の中に深く浸透した。客層も、同胞より日本人の方が多く占めるようになった」(金さん)

 金さんは、解放直後に開設された川崎朝連第2学院から川崎朝鮮初等学校に通った1期生である。

 敗戦後、日本は連合軍総司令部(GHQ)の占領下に置かれ、川崎にも多くの米軍が進駐してきた。

 「米軍が川崎にも来るということで、女性は夜の外出を控えるなど、緊張した生活が続いた。その一方で、少しでも生活を楽にしようと、多くの子供がガムやタバコを米軍相手に売り、家計にあてた。私もその1人でした」(金さん)

 戦後の一時期、この京浜コンビナートの工場が飲み込み吐き出す、ぼう大なくず鉄を求めて、女性や子供までが、生々しい爆撃跡地などを走り回ったという。                           (羅基哲記者)