わがまち・ウリトンネ(35)/神奈川・川崎(4) 金三浩


「頭の中の知識は奪えない」-アボジの言葉かみしめ教員に

 祖国解放(1945年8月15日)後、多くの同胞が帰国した。一方、そのまま残った人々は、子供たちに母国語と文字を教えようと、郡電前(現在の池上)、中留(桜本)、入江崎(水江)、桜本、小田、浅田、渡田などの各地に国語講習所を開設した。

 46年3月には、それらを統合して川崎朝連第1(中留)、第2(入江崎)学院を設立。同年11月には両院を統合した川崎朝鮮初等学校(浜町)が設立された。

 川崎市に住む金三浩さん(67)は、第2学院を経て初等学校に通った1期生である。

 「第2学院の校舎は父が営んでいた飯場を利用したもの。初等学校は火事で使われていなかった日本学校(大島小)を借りました。改修のため、材木は秋田、屋根瓦は愛知まで行って購入しました」

 しかし49年10月、朝鮮人学校閉鎖令によって、全国の朝鮮学校が強制的に閉鎖された。初等学校は、日本の桜本小学校の分校として授業を行い、母国語を教えた。

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 金さんは初等学校卒業後、東京朝鮮中級、高級学校に進学。卒業後、朝鮮学校教員として愛知県に赴任した。教員になった動機について、金さんはこう語る。

 「きっかけは朝鮮学校開設に尽力したアボジの言葉です。植民地支配時代、われわれは国と言葉を奪われたが、これからは国を守るためにも言葉を守らなければならない、お金はあってもいつかはなくなるものだが、頭の中の知識は奪えない―このアボジの言葉の意味をかみしめるたびに、朝鮮学校教員になる必要性を感じたんです」

 また、解放前に通った日本学校での辛い思い出もある。小学校2年の時、担任から突然、先祖代々からの金という姓を、クラスメート全員の前で、「金田」に変えさせられたのだ。「悔しかった。しかし朝鮮人だという意識は強かった。メンコやベーゴマなどで同級生と遊んだ時は、絶対に負けるものかと思いました。取れる物はすべて取ったもんです」と笑う。

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 金さんは53年、急性肋膜炎を患い、療養のために愛知から両親のいる川崎に戻ってきた。しかし愛知県教育委が交付した日本の教員免許を取得していたので、54年から川崎市立高津小学校の分校で、母国語を教えるようになる。その後、母校の川崎朝鮮初級学校校長を務めるなど35年間、民族教育の現場で奮闘してきた。現在は川崎民族教育推進協議会会長として、民族教育の諸権利獲得のために奔走している。

 桜本小の分校、川崎朝鮮初等学校は54年、現在の川崎朝鮮初中級学校(中級部併設は71年)のある桜本に移転した。65年、日本の公立分校から自主学校となり、翌年に朝鮮学校として認可を受けた。

(羅基哲記者)