近代朝鮮の開拓者/企業家(11)金※(=上が禾、下がヰ)洙キム ヨンス
京紡の事業拡大に貢献/増資を重ね、海外に進出
どの国でも見られることであるが、近代的工業はまず、紡織部分から始められる。
20世紀になって、日本の経済的進出が目立ってくると、民族の独立のためには、何よりも経済的独立の必要性が痛感されてきたし、特に1917年、日本の大資本がわが国に進出して朝鮮紡織株式会社を作るという計画は、愛国的な人々、民族的な企業家に大きな危機感を与えた。
日本の大紡織資本の釜山上陸に対抗して、大規模の近代的な民族資本による紡織工場を作ろうという運動が計画され、19年、3・1独立運動の高揚した雰囲気の中で、同年の5月、京城紡織株式会社(京紡)の創立総会が開催されたのである。
したがって京紡の設立は、3・1運動の一環として、経済的独立のための民族企業を発展させようという目標をもって展開されたのである。発起人の筆頭は、開化派の生き残りの朴泳孝(初代社長となる)を初めとして、前回紹介した尹相殷、それに金性洙、金※(=上が禾、下がヰ)洙、李康賢など、当時朝鮮を代表する企業家、大地主、銀行家、豪商など、多数であった。
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この京紡の企業を実質的に組織・運営し、事業を拡大したのが第2代社長となった金※(=上が禾、下がヰ)洙である。
彼は、1921年に京都帝国大学経済学部を卒業し、故郷の高敞に帰り、干拓事業に着手した。数年後には4200町歩の農地を作ることができた。25年には、運営難に陥った京紡を救うため自己の大農地を投資し、わずか数年にして赤字経営から抜け出して、利潤をあげる企業体に育て上げた。
その後、次々と増資を重ね、機械設備を増設していった。まず、原糸の自給のために紡織機2万2000錘を新設した。ついで黄海道南川に繰綿工場を設置し、39年には、資本金1000万円で旧満州の蘇家屯に南満州紡績会社を設置し、産業の国外進出を実現した。
彼は、また満州に働きに来ている朝鮮人青年の教育のために東光学校を建てた。同時に東光製糸株式会社の経営を引き受け、絹織物にも事業を拡大した。また、これらの工場で働きながら進学を希望する同胞青年のために奨学金と研究費を支給するようにした。
これは、青年たちに大きな希望を与え、多くの青年がこれによって勉強に励むことができた。
このように、3・1独立運動以後は、金※(=上が禾、下がヰ)洙のような経営の能力と知識を備えた近代的企業家、および近代的科学と技能を体得した労働者階級が形成されて行き、朝鮮は来たるべき大きな変革の時期を準備していくのである。 (この項は終り、来年は学芸、音楽分野の人物を紹介する。金哲央、朝鮮大学校講師)
金※(=上が禾、下がヰ)洙(1896〜1952年頃)京都帝国大学経済学部を卒業した後、故郷の高敞で干拓事業を行い、大きな成果をあげた。19年、民族資本を結集して京城紡織株式会社の創設に参加し、企業発展に自己の能力を発揮した。
【訂正】8日号の通し番号は、(9)ではなく(10)でした。