わがまち・ウリトンネ(32)/神奈川・川崎(1) 金三浩


忘れられぬ関東大震災/朝鮮人大虐殺-神奈川で4000人が犠牲に

 76年前の1923年9月1日午前11時58分、突然、相模湾を震源とするマグニチュード7.9の大激震が関東一円を襲った。東京、神奈川をはじめ関東1府6県に大きな被害をもたらした関東大震災である。死者約9000人、家屋の全焼喪失は約46万5000戸に達した。人々は恐怖感から、大パニックに陥った。

 関東大震災、同胞にとって忘れられない出来事がある。朝鮮人虐殺だ。神奈川県でも、それにまつわる話が代々語り継がれている。

 川崎市に住む金三浩さん(67)は、「日本軍警が流布したデマによって社会不安があおられ、民衆による自警団が組織された。そして彼らが日本刀や竹やりなどで武装して、 朝鮮人狩り に奔走し、少なくとも6000人の同胞が虐殺された。そのうち3分の2の4000人が神奈川県で殺されたんです」という。

 当時、日本にいた同胞の総数は8〜9万人。うち東京に1万2000〜3000人、神奈川には約3000人いたと言われる。全体で6000人、そして神奈川で4000人という犠牲者の数がどれだけ大きいかは一目瞭然だろう。ちなみに神奈川県内で虐殺された同胞の中には、東京から逃げてくる途中で殺された同胞がかなり含まれている。

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 メモ 関東大震災発生直後、「朝鮮人が放火した」「朝鮮人が井戸に毒を投げた」「朝鮮人が暴動を起こしている」などの何の根拠もないデマが流され、虐殺の発端となった。当時、川崎・鶴見方面には「土建業に従事する同胞数百人が住んでおり、デマにおどった市民の暴行、迫害におびえていた」(川崎労働史・戦前編)。

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 「自警団は、同胞かどうかを見分けるために、道行く人に『15円50銭』を言わせた。同胞は濁音がうまく発音できなかったからだ。『チュウコエンコチッセン』などと発音したら同胞と判断され、殺されたんです」(金さん)

 デマによって発生したこの事件は、「日本の官民が責任を負うべき歴史上の一大汚点」(「神奈川県史各論編1政治・行政」)である。

 戦後、県下では同胞や日本人によって同胞犠牲者の追悼祭が営まれたり、追悼碑が建立された。しかし、日本政府や地方自治体の手による犠牲者追悼は、残念ながら行われていない。

 95年8月、朝・日合同による「神奈川県関東大震災朝鮮人犠牲者 追悼碑建立推進委員会」が発足し、行政当局が責任を持って追悼碑を建てるよう、運動を展開しているが、実現には至っていない。

 金さんは「国と言葉を奪われ、最後には命まで奪われたこの悲惨な歴史は、決して忘れてはならない史実です。日本当局が過去の過ちを2度と繰り返さないためにも、後世に歴史を正しく伝えていくべきだ」と語る。  (羅基哲記者)