40年迎える在日同胞帰国事業/実現までの道のり


 「資本主義から社会主義への大移動」――在日同胞975人を乗せた、朝鮮民主主義人民共和国への第1次帰国船が1959年12月14日、新潟港を出港してから40年になる。84年の第187次まで約10万人の同胞が朝鮮に帰った。在日同胞はなぜ帰国を望んだのか、その発端となった出来事は何だったのか、どういう経過を経て実現したのか――改めてふり返って見た。

 

きっかけ/川崎・中留の同胞らが発議

 朝鮮への帰国問題が公然と語られるようになったのは、神奈川県川崎市中留(現在の桜本)に住む同胞たちの発議だった。

 彼らは1958年8月11日、日本での生活を清算して、祖国に集団で帰国することを決議、その心情をつづった手紙を金日成首相(当時)に送った。

 この動きを報じた本紙の前身、朝鮮民報8月14日付はその時の状況をこう記している。

 「この日、中留では朝鮮の現状を聞く集いが開かれていた。…。そして、夜遅くまで祖国についてあれこれ話し合った。誰からともなく、『どうだ。共和国政府に建議書を出しては…祖国に帰って、われわれの力と技術と才能を思い切り建設に生かしては』との発議が出された。集まった老若男女は一致して『それがいい。…私たちの切実な心情を祖国もきっと理解してくれるだろう』と支持を表明した」

 中留の同胞たちの発議に対して、金日成首相は9月8日、平壌の朝鮮創建10周年記念慶祝大会における演説で、在日同胞の帰国を歓迎すると言明した。

 これ以降、日本各地で帰国実現を求める同胞たちの運動が活発になった。

 

生活苦と民族差別

  1945年8月15日の祖国解放当時、日本には240万人の同胞がいた。このうち、推定で約140万人が故郷のある南朝鮮に帰っていった。

 だが、南には米軍政がしかれ政治、経済的混乱が深まり、社会不安が増大していた。帰国する人々の足も自然と止まり、日本への逆流現象さえ起きた。

 日本に残った同胞たちを待ち受けていたのは、民族的差別と生活苦だった。

 日本政府の統計によると、52年当時、在日同胞の完全失業者は29%に達した。さらに58年には、失業・半失業者が全体の80%を占めるに至った。

 加えて、在日同胞の基本的人権を著しく侵害する「外国人登録法」(47年5月)、「出入国管理令」(51年10月)などが相次いで制定された。

 

実現まで/ 超党派日本人も「協力会」結成し、 のべ235万人が運動

 しかし、帰国実現までの道のりは平坦ではなかった。日本当局、とくに南朝鮮当局が反対したからだ。在日同胞たちは、その実現を求めて日本各地で連日のように集会を開いた。1年足らずの間に2万の大小集会が開かれ、延べ235万人の同胞が参加した。

 日本の広範な人々に理解を求める署名運動、街頭宣伝なども精力的に展開された。

 こうした運動の結果、超党派の日本人士90余人による在日朝鮮人帰国協力会が結成された。また55都道府県議会、地方議会、知事会、市長会などでも支持決議が採択された。

 世論の高まりを受けて、日本政府は2月13日、「閣議了解」、事実上、帰国を認める決定を行った。

 3日後の16日、朝鮮赤十字会は日本に実務会談を提案、4月からジュネーブで開催されるに至った。

 会談開催以降、同胞らは日本政府や赤十字社に対し連日、要請行動を繰り広げた。なかでも日本市民らに大きくアピールしたのが、朝鮮青年による帰国実現要求神戸―東京間自転車行進(6月3〜12日)だ。

 赤十字会談は6月に妥結、インドのカルカッタで朝・日両赤十字代表が在日朝鮮人の帰国協定に調印した。そして12月14日、第1次帰国船が新潟を出港した。

関 連 年 表

1945・8・15 祖国解放
  48・9・9 朝鮮民主主義人民共和国創建
  55・5・25 朝鮮総聯結成
  金日成首相(当時)、第3回朝鮮労働党大会報告で、在日同胞学生が朝鮮での勉学を希望するなら無償で歓迎、と表明
    6・20 朝鮮政府、帰国する在日朝鮮公民の生活保証する内閣決定
  58・8・11 神奈川県川崎市中留在住の同胞、首相に手紙送る
    9・8 金日成首相、建国10周年記念慶祝大会で「在日同胞の帰国歓迎する」と表明
   11・17 超党派の日本人士による在日朝鮮人帰国協力会結成
  59・2・13 日本政府、在日朝鮮人の帰国認める 「閣議了解」
    4・13 在日朝鮮人の帰国問題のための朝・日赤十字第1回会談(ジュネーブ)。6月10日妥結
    8・13 朝・日両赤十字代表、在日朝鮮人の帰国協定に調印
   12・14 第1次帰国船、新潟を出港。16日、清津港に到着