この人と語る/歴史学者-中塚明さん


歪んだ歴史観が戦争起こす/明治以降の日本の来し方、再考を

 私は1929年生まれである。2歳の時に満州事変が始まり、小学校2年生の時に日中全面戦争、そして小学校6年の時、太平洋戦争に突入した。敗戦の時は15歳だった。少年時代はずっと戦争の時代だった。そして、日本は「神の国である」「世界で最も優れた国である」「決して戦争に負けることはない」と教えられて、またそれを信じ込んで少年時代を送った世代だ。

 しかし、このような独善的な考えが世界に通用するはずもなく、1945年、日本は惨澹たる敗戦を迎えた。アジアで2000万人以上の人びとを犠牲にし、日本人もまた310万人も亡くなるという、それまで経験したことのない膨大な犠牲を払っての敗戦だった。

 戦後、勉強を再開した私には、どうしてこういうことになったのか、その歴史的な理由は何かという想いが大変強かったのである。第2次世界大戦の敗戦に至る日本の戦争の歴史は、日清戦争・中国の義和団の鎮圧戦争・日露戦争、そして、第1次世界大戦、シベリア出兵、そして満州事変以降の15年にわたる戦争と、いわば戦争の連続といってよい時代であった。

 そして、その最初に日本が矛先を向けたのが朝鮮だった。そんな関心から私の日・朝の歴史研究は始まった。


 日本が朝鮮を支配するのに重大な1歩となったのは日清戦争だ。中国と日本が朝鮮の支配をめぐって争ったのが日清戦争である。中国は当時、清という王朝が支配していた。この清朝中国は、朝鮮を属国扱いにしていた。それが日本が朝鮮に勢力を広げる上で大きな障碍になっていた。そこで、日清戦争で日本は「朝鮮の独立を守る」ことがこの戦争の目的だと内外に宣言した。中国は国家の独立も認めない国際法をわきまえない「野蛮な国」である、それに比べて日本は「文明国」なのだから「朝鮮の独立を守る」と言ったのだ。日清戦争は「文明」と「野蛮」の戦争だというわけだ。


 「朝鮮独立」のためと日本が言って始めた日清戦争の最初の武力行使が、なぜその王宮の占領であったのか。この朝鮮王宮占領について日本軍の公式戦史である「明治278年日清戦史」には、こう書かれている。

日本軍が王宮の裏山に陣地を築くために王宮の東側を通っていたら、王宮を守っていた朝鮮の兵士から発砲された。そこで、日本軍も応戦して、やむをえず王宮の中に入って国王を保護したのだ。事件はまったく偶然的なもので、15分位で終わり、小規模な衝突に過ぎなかった。

 日本陸軍の最高の軍事指導機関であった参謀本部が編纂した公式の戦史だから、誰も事実をきちんと書いてあると思うかもしれない。しかし、これはウソを書いていたのだ。

 私は94年、その年は日清戦争からちょうど100年目の年であったが、東北の福島県立図書館の「佐藤文庫」で、この「日清戦史」の草案を調査した。その時、朝鮮王宮占領のことを詳細に書いてある草案の記述を発見した。」

 その草案は、この朝鮮王宮占領は、日清戦争を始めるにあたって、なかなか日本のいうことを聞かない朝鮮の国王を擒にして、日本軍のいうことを聞かせるために、事前に周到な準備をして、日本政府の出先機関である公使館(いまの日本の大使館)と日本軍が緊密に協力して引き起こした計画的な占領であったと記されていた。

 日清戦争で日本政府は朝鮮政府に向かって宣戦布告をしていたわけではなく、まさに「朝鮮の独立のため」の日清戦争と言ってきたのだから、こんな計画的な王宮占領の事実を公表することができなかった。

 国王が事実上、日本軍の擒になったこの王宮占領は、朝鮮の人たちの大きな憤りを招いた。この王宮占領後、朝鮮では日本の侵略に反対する蜂起が各地で起こった。近代的な軍事力では圧倒的に優れていた日本によって、その都度、朝鮮の民族運動は激しい弾圧を受けて鎮圧されるが、しかし、次に起こるときには、前回を上回る大きな規模で起こるということを繰り返して、朝鮮の民族運動は決して絶えることはなかった。

 隣国・朝鮮との平和的な共存なしに、日本の安全も保障されないということは、近代の歴史に溯って立証されているところである。朝鮮をはじめとするアジア諸民族の民族の心を踏み躙ったことが、あの戦争の惨禍を招き、日本を敗戦に導いた根本的な理由であったと私は研究を通して確信している。明治以降の日本の来し方を、もう1度よく振り返って、1人1人の日本人が自主的に考えることが大切である。(大阪朝高での講演の詳報・11月13日)

素顔にふれて/心揺さぶられた出会い

 代表作に「日清戦争の研究」、当時の外務大臣陸奥宗光の外交を追究した「蹇蹇録(けんけんろく)の世界」など。近代日本の立ち遅れた朝鮮観を根底から覆す視点を切り開いた史学者である。

 近代日本の「朝鮮史像」はどのように歪曲されていったのだろうか。「神功皇后の『三韓征伐』と秀吉の『朝鮮征伐』を賛美する論理が結びついて、明治初期から朝鮮侵略が展開されていった。その研究は軍部と学者が一体になって推進され、学校教育によって日本人の中に深く根をおろしていった。こうして朝鮮民族への蔑視と偏見がさらに積み重ねられていったのだ」

 日朝関係の政治史的研究の開拓者的役割を果たしてきたが、「象牙の塔」に閉じ籠っている学者ではない。今夏、大阪朝高のインターハイ出場を祝って、同校に横断幕を贈る運動の呼び掛け人の1人として、東奔西走した。

 70年代には、「東北地方朝鮮人強制連行強制労働調査団」、「被爆朝鮮人の調査」に参加して、被害者らから筆舌に尽くせぬ民族差別の実情を聞いた。

 「ある女性は原爆で夫を亡くした後、2人の子供を養豚をしながら育て、民族教育を受けさせて、朝鮮大学校に入れたと胸を張って語っていた。民族的な誇りに目覚めた朝鮮人の素晴らしい生き方にも出会い、心を揺り動かされたことも少なくありません」

 受難の日々を生きた朝鮮民族への深い思いが、長い研究生活を支えてきた。

 「近代日本の朝鮮認識」(研文選書)、「近代日本と朝鮮 第3版」(三省堂選書)などの名著は、常に絶えざる誠実な研究の積み重ねと「隠された地底から新しい鉱脈を発見する」かのように生み出されてきたのだ。これらの書は、南北朝鮮の研究者らによっても、敬意を持って学ばれている。 (朴日粉記者)

-プロフィール-

 1929年、大阪府生まれ。京都大学卒。93年奈良女子大教授を定年退職。現在同大名誉教授。日本学術会議会員。朝鮮史研究会、歴史科学協議会などでも活躍。著書に「日清戦争の研究」「歴史の偽造をただす―戦史から消された日本軍の『朝鮮王宮占領事件』」など多数。94年、日本軍による朝鮮王宮占領事件の全貌を伝える記録「『日清戦史』草案」(佐藤文庫)を発掘し、大きな反響を呼んだ。