わがまち・ウリトンネ(29)/神戸・長田(2) 姜仁淑


解放後、進出著しい同胞企業/ゴムからケミカルへ

 長田の街と切っても切り離せないケミカルシューズ。地元の人によると、名づけ親は同胞だという。ケミカルは直訳すれば化学製品だが、なぜこのような名前がつけられたのか。

 話は祖国解放(1945年8月15日)直後にさかのぼる。敗戦後の日本は極度の物不足にあった。生ゴムもその一つで、統制品として扱われていた。ゴム履物は人気が高く、作れば作るほど売れた。

 このころ、力をつけて業界に進出していったのが同胞たちだ。戦前、ゴム工場で過酷な労働を強いられてきた人々だが、ノウハウはばっちり身につけていた。48年には兵庫県朝鮮人ゴム工業協同組合が組織されるまでに至る。

 もちろん、すべての同胞がケミカル産業に携わっていたわけではない。姜仁淑さん(83)はいう。

 「近所の男性はみな土方でした。職業安定所に通っては、日雇いで働く人が多かったですね」

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 50年6月の朝鮮戦争で生ゴムの価格は急騰したが、翌51年1月、生ゴムの統制解除とゴム製品の統制撤廃で様相は一変した。闇相場でトン当り250万円にまで跳ね上がっていた価格が40万円にまで急落。ゴム履物の市場価格も著しく低下した。事態を予測していた大手メーカーが大量生産を開始したため、中小企業が集う神戸の業界では倒産が相次いだ。

 ゴムを失った業界が目をつけたのがポリ塩化ビニール。これを材料にしたのがケミカルシューズだ。

 ケミカル業界は、製造工程が何段階にも分業化している。その一つ、ミシン縫製を30年余り請け負ってきたある同胞(67)は、操業当時を振り返ってこう話す。

 「私らが業界に入ったころ、そりゃ景気は良かったですわ。朝の8時から夜中の12時まで働き通しで、遊ぶ暇もありませんでした。アメリカとの貿易も盛んで、仕事がどっさりあったんです」

 しかし、71年8月、ニクソン米大統領(当時)がドルと金の交換制を停止する「ドル防衛策」を発表。73年からは変動相場制へと移行した。「このニクソンショックで貿易量が落ち、放っておいても注文がくる時代は過ぎました」と嘆く。ドルショック直前までは年間1億足以上を生産していた業界だが、94年には3分の1に落ちた。長引く景気低迷に追い討ちをかけたのが95年の阪神大震災。業者の八割が操業不能に陥った。生産量も震災前の七割前後に止まる。

 「それでも長田とケミカルとは切っても切り離せない」と前出の同胞はいう。

 5つの同胞業者が、材料仕入れから販路確保に至るまで共同で取り組む「マックス」。その一つに株式会社シャープがある。30代の若き専務、金錫東さんはいう。

 「厳しい状況が続くが、販路を開拓するなど、様々な形でがんばっていきたい。長田のケミカルの灯は絶やさない」(文聖姫記者)