近代朝鮮の開拓者/企業家(10)崔楠(チェ・ナム)
崔楠(1890年頃〜1940年頃)
ソウルの貧しい家に生まれ、苦学して日本の鉱山学校卒業。銀行に勤めながら徳元商店という雑貨商を始める。そして、初の民族系の東亜百貨店を設立する。のちに、和信百貨店に引き継がれる。
最初の民族系百貨店を創立/商品安く仕入れ、サービス徹底
日本の植民地支配が始まった頃、ソウルには大きく分けて2つの商店街が形成されていた。1つは、東大門から光化門に至る鍾路と広橋一帯に位置する、わが国の伝統的な商店街で、北村商店街と言われた。
これに対して、初期の朝鮮総督府にあった南山山麓から南大門に至るあたりに日本の商店や商社が軒を連ね、彼らの下駄の音が響く、南山商店街が形成された。
この2つの商店街は互いに対立していたが、常に南山商店街が優勢であった。それは、彼らが日帝の庇護を受け、大資本と商品産業工場を背景に持っていたからである。
さらに1920年末から30年代初めにかけて、ここに三越、三中井、丁字屋の3つの百貨店が進出。日本人ばかりでなく同胞大衆も好奇心から押し寄せ、北村商店街は大きな打撃を受けるのである。
ところが、31年になると北村街の中心である鍾路にも、四階建ての最新式コンクリート作りの百貨店が出現することになった。
当時、ソウルの財閥であった閔奎植の所有建物を、鍾路で徳元商店という雑貨商をやっていた崔楠が交渉して、借り、「東亜百貨店」として発展させたのである。
崔楠はソウルに生まれたが、幼くして父親を失い、母方の援助で普成中学に進学したが中退、日本に渡って苦学しながら鉱山学校を卒業した。帰国後、西洋人の経営する鉱山に就職したが、しばらくして退職。ソウルに行き商業銀行東大門支店に勤めながら、徳元商店という小さな雑貨商を始めた。昼は妹が店番をしたという。
崔楠が事業を発展させた秘訣は、まず、彼が勤勉で、新しいものを追求する精神を持っていたこと。次に、店員の教育を徹底して客へのサービスに努めたこと。そのために、日本の商店で経験を積んだ女店員を高給で雇った。
第3に、ベテランの店員を大阪に派遣して、常駐させ、品質の良い商品を製造元から直接安く仕入れて販売したこと、などである。
こうして彼は次々と支店を平壌、大邱、光州、全州、咸興、木浦などに出すことができた。
そして、ついに鍾路に東亜百貨店の開業である。従業員200余人、商品の質にこだわり、徹底した教育とサービスに努めた。店内の陳列と装飾を現代化し、約半数の女店員の服を美しく統一した。
さらに、この店の中心部に10銭均一の売場を設置し、これを新聞広告やチンドン屋で大きく宣伝した。今でいう100円ショップである。こうして彼の商法は新しい時代の一つのスタイルを作り出したのであった。(金哲央、朝鮮大学校講師)