わがまち・ウリトンネ(27)/広島・呉(3) 蒋炳寿、朴仁煥
学校の出発は幼稚園の園舎/減りつづける同胞人口
現在は広島朝鮮初中高級学校に統合されたが、呉市には祖国解放(1945年8月15日)直後から朝鮮学校があった。広島朝鮮第2初級学校の前身である。
当時11歳だった朴仁煥さん(64)は、「阿賀町西町にあった日本の幼稚園園舎を9000円で購入したそうです」と話す。46年3月のことだ。
同年4月、朝鮮語講習所が開校した。校舎が落成するまでは、個人の家にみんなが集まり朝鮮語を学んでいた。当初、生徒数は7〜8人で、「寺子屋」といった風情だったが、校舎が落成した後には30人に増えた。
「最初は朝鮮語と朝鮮の歌だけを習っていましたが、翌年からは算数、地理、歴史なども加わりました」(朴さん)
しかし、学校が順調に発展していた矢先の49年1月、朝鮮人学校閉鎖令が下る。同校も強制閉鎖させられたが授業は続けられた。この頃には生徒数も83人と、当初の3倍近くになっていた。
50年代半ばには、平屋の校舎を2階建てに改築しようとの提案が同胞の間から持ち上がる。
「生活は決して楽なわけではありませんでしたが、みんなで資金作りをしました。多少余裕のある人は、人より多く寄付してくれました」
蒋炳寿さん(80)は当時を振り返る。
「建物もすべて、同胞がつるはしやかなづちを手に建てました」
教室の増改築、新築の職員室が完成したのは58年3月。広島朝鮮第2初級学校は93年4月、広島朝鮮第1初級学校と統合し、幼稚班だけが残ったが、96年4月に広島朝鮮初中高級学校に統合され、その歴史を閉じた。
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「60〜70年代が一番活気づいていました。月に4、5回は集まりましたね。トンネで結婚式があれば、みんなが一緒になって手伝ったものです。」
朴さんは当時を懐かしむ。
しかし、呉から出ていく人が増え、同胞の数もめっきり減った。
朴さんはいう。「若い人はここにはいつきません。みな広島市内や関西地方に行ってしまいます。それに、広島市内や他県に嫁ぐ人はいても、他県から嫁いでくる人はいませんよ」「それでも、同胞同士助け合う雰囲気は今でも残っています」と蒋さんは話す。一方で、「学校があった頃は学芸会や運動会などで集まることも多かったのですが、そういう機会もめっきり少なくなりました。いま、人が集まるのは冠婚葬祭の時ぐらいでしょう」と多少寂しげだ。
「問題はやはり、トンネの同胞人口が減ってきていることにあるのではないでしょうか」
朴さんの指摘は全国に共通する話かもしれない。 (この項おわり=文聖姫記者)