わがまち・ウリトンネ(26)/広島・呉(2) 蒋炳寿、朴仁煥
酒粕処理に養豚業/古鉄、焼肉業も盛ん
1940年代後半、広島県呉市で焼肉屋を営んでいたのは蒋炳寿さん(80)ぐらいだった。蒋さんは呉に来た当初から自宅前で焼肉屋を始めた。市内では第1人者だ。それ以外の人たちはどぶろくの密造、闇の飴売りなどで生計をたてていた。
50年代初期からは、これに養豚業が加わる。「同胞が豚を育てるようになったのは、どぶろく造りと関係しているんです」と、今も豚を育てている朴仁煥さん(64)は話す。
「どぶろくを造ると酒粕が出る。その処理に困るから豚を育てる。家畜の臭いで粕の臭いを消したわけです。これで摘発を逃れることができました」
そうして育てた豚を市場で売った。当時、豚を育てるのは朝鮮人の間では当たり前の話だった。
さらに、米、英などの進駐軍が出した残飯が、養豚業の拡大に拍車をかける材料に。事業の拡大を狙った同胞らは、残飯を拾ってきては豚のエサにした。「私も多い時には50頭ほど育てていました」と蒋さんは当時を振り返る。
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メモ 「朝鮮料理」はすでに明治時代、東京にあったとの記録がある。だが、当時はあまり知られておらず、客層も金持ちに限られていた。焼肉店が登場するのは戦後。草分け的存在として、東京・新宿の「明月館」、大阪・千日前の「食道園」などがあげられる。
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1950年に朝鮮戦争が始まると、同胞らの間では古鉄業に携わる人が増える。
「賃金1万2、3000円の時代に川で鉄屑を拾ってきただけでも4、5000円になりました。もちろん、戦争には反対でしたよ。でも、皮肉な話ですが、朝鮮戦争特需で同胞の生活が潤ったのも確かなのです」と朴さんはいう。
しかし、これには事情があった。「鉄買いの仕事はいくらでもあるのに、日雇いの仕事がないのです。日雇いで生計をたてていた者は、生きていくために鉄を拾うよりほかありませんでした」
中国新聞51年6月26日付には次のような記事がある。
「朝鮮動乱(ママ)1周年を迎えた呉市産業界は造船業の立直りをはじめ、いずれも好景気の余波を受けて久方ぶりに活況をみせているが、この業界の好景気は求人面にもピンと響き…失業モデル都市の汚名返上も間近くなっている」
同胞らの生活は落ち着きを取り戻すが、50年代末にはどぶろく造りができなくなる。日本の当局の摘発が激しさを増したからだ。
「事前に裏から情報が入ってくるのでつかまることはなかったが、いたちごっこに疲れてしまい、みなやめてしまった」(朴さん)
こうして70年代初期まで続けられたのは養豚業と古鉄業。その後、焼肉屋全盛時代を迎える。(文聖姫記者)