文学散策/奪われた野にも春は来るか  李相和(リ・サンファ)


奪われた野にも春は来るか

今は他人(ひと)の土地―奪われた野にも春は来るか?(中略)

河辺に出た子供のように むやみにはしゃぎ むやみに駆ける私の心よ
おまえは何を求め 何処に行こうとするのだ 可笑しいじゃないか 答えて見ろ。
私は体中を 草いきれで満たし
緑の笑いと 緑の悲しみが かみあう間を
いたい足をひきずりひきずり 1日(ひとひ)を歩く 春の輿に酔ったせいだろうか。
しかし いまは野さえ奪われ 春さえも降りるところがないのだ。

(許南麒編訳「朝鮮詩選」1955年、青木書店)

 

誇りと悲憤抱き金剛山放浪へ

 詩の始まりからストレートに問題提起し、詩の結びでは、野(国土=政治経済)ばかりか春をめでる喜び(情緒=精神文化)さえも奪われたと、指摘している。詩の大まかな内容は、次の通りである。

 雨後の爽やかな朝、美しい野辺に出て散策する詩人の心は、黄金色の陽の光、青い麦畑、舞う蝶やつばめを目のあたりにして、子供のようにはしゃぐ。

 しかし、黄金色の春の陽の光のような喜びは、突然青色の悲しみ(翻訳は「緑の悲しみ」)に急変する。初めのうちは、美しい春景色に酔いしれ感動していたが、やがてこの美しい春の野辺もすでに奪われているという政治的現実を自覚した時、春をめでる喜びも凍えてしまう…。

 これまで取り上げた金素月、韓龍雲の詩と比べ、李相和の詩は、問題をより鮮明に示しているばかりか、感傷的なすすり泣きのトーン以上に、より積極的な怒りと抵抗の高いトーンで読者の胸に響いて迫ってくる。プロレタリア詩人としての社会主義的、階級的見地が、力強いリズムを生んだと思われる。

 

 慶尚北道大邱で生まれた李相和(1901〜43年)は、少年時代に無量、「白潮」(自然主義的傾向の文学)の同人時代には、想華という号を名乗っていた。その後、「パスキュラ」(24年、進歩的文人集団)、カップ(25年、朝鮮プロレタリア芸術同盟)時代は尚火を、27年以後の絶筆時代には、白唖とした。

 無量の時代(18年=17歳)の夏に彼は、何処へとも知れず、姿を消した。それから秋も遅いある日、ひげをぼうぼうとはやし、破れた夏の衣装を着た1人の気食不愉快な男が、杖をついて門前に現れた。3ヵ月10日ぶりに李相和が帰ってきたのだ。

 その間、野宿をしながら金剛山を歩いてきたというのであった。なぜ、金剛山放浪の旅だったのか?

 

 彼は、民族の深い悲しみの中にありながら、朝鮮の名勝・金剛の霊峰に直に接して見て、悲しみに勝つ民族的な誇りと自負を胸深く植え付けようとしたのである。だから誇りと理想と抵抗を追求する彼の詩心の根源は、金剛山放浪の旅にあったといえる。

 事実、彼の有名な詩「私の寝室へ」は、放浪時に書かれたと伝えられている。

 彼は、東京留学時に神田の学生会館で出会った「絶世の美人」柳宝華と熱烈な恋をする。

 帰国後、26年に肺を患い床にふした彼女を見舞うため、李相和は咸興にいる彼女のところまで駆け付け、約1ヵ月間看病を続けた。そして彼女は、詩人の膝に顔を埋めて息をひきとった。(金学烈、朝鮮大学校教授、早稲田大学講師)