ウリ民族の風習、伝統/民族的遊戯―パドゥク(囲碁)
3国時代から知能を競い合う
段々、寒くなってきた。
朝鮮では、庶民たちが冬になるとオンドルなどの暖房装置が備えられた温かい室内で、パドゥッ(囲碁)を楽しむ光景が見られる。パドゥッは長い歳月を経て、ウリナラの代表的な室内娯楽の一つとして伝承されてきたものであり、今日においても、最も大衆的な娯楽として広く普及している。
朝鮮では、知能を競いあう民族的な遊びとして子供たちに人気があったせいもあって、南の趙治勲氏のように幼い頃からパドゥッに親しみ、日本のプロ棋界で活躍している棋士もいる。
パドゥッの歴史は古い。高句麗、百済、新羅の3国時代(313〜676年)の記録によればパドゥッは、「ウィキ(圍棋)」と呼ばれた。
史書には、高句麗の人々がいろんな民族的遊戯の中で、最もパドゥッを好んだと記している。
この時代、パドゥッにまつわる教訓的な話がある。
国勢の拡張の真っ最中であった高句麗のチャンスワン(長寿王=第20代、413〜491年)は、南方に勢力を伸ばそうとした。しかし、南方の百済の国力は強大で、攻め入ることができなかった。
その時、高句麗のパドゥッの名手であった僧・トリン(道琳)は、百済のケロワン(蓋鹵王)がパドゥッを好むことを知り、百済に偽りの亡命者となった。
トリンは百済に来て、ケロワンとパドゥッを打ち、親しくなると、王に進言して城などを改修させた。その結果、国庫はすっかり空になり、民心は離れていった。
この報告を受けたチャンスワンは、ただちに百済に攻め入り、ケロワンを倒した。
パドゥッは、その後、高麗と李朝時代になって、庶民たちの親睦を深める遊びとして愛されていった。