わがまち・ウリトンネ(23)/埼玉・深谷(2) 安承模


兵舎跡に入居 通称「305」/「村長」宅に30メートルの大木

 深谷では戦時中、約5000人の同胞が造兵廠(しょう)建設、防空壕づくりに携わっていたが、そのうち3000人ほどが祖国解放(1945年8月15日)直後に帰国した。それでも造兵廠周辺の幡羅(はたら)、明戸(あけど)、本郷の三村にあった飯場跡には、2000人ほどの同胞がそのまま残った。

 46年、彼らは深谷造兵廠に勤務していた兵隊の兵舎跡(幡羅村原郷)に移住した。ここがいまでも「305(サンマルゴ)」と呼ばれる、深谷のトンネである。

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 メモ 幡羅村と明戸村は55年1月、深谷町、藤沢村などと合併して深谷市となる。

 本郷村は岡部村と合併して岡部町となった。以来、幡羅村原郷は深谷市原郷となる。

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 「305」とは、原郷305番地のこと。兵舎への入居当初からここに住み、トンネを仕切ったことから「村長」とも呼ばれた安承模さん(81)はこう話す。

 「当時、同胞しか住んでいなかったことから、日本人が『朝鮮人が住む集落』という意味でそう呼んだ。郵便物は地名の原郷をはぶいて、『深谷市305』でも届いた。今では県下の同胞の間でも定着している」

 日本の敗戦後、兵隊が出ていき、空き家となった兵舎跡。英語が話せた元新聞記者の同胞が、隣接する熊谷市の三ヶ尻に駐屯していた米軍司令部と交渉し、ここに朝鮮人が住んでもよいという許可を得た。兵舎は4000坪の敷地に、2間(1間=4.5畳)の長屋が多数連なっていた。兵士が住んでいたので、水道や電気などの設備はそれなりに整っていた。

 「兵舎への入居は、幡羅、明戸、本郷の飯場跡で暮らしていた同胞を対象に行われた。しかし、2000人の同胞が一度に入ることは不可能だった。結局、兵舎周辺の幡羅に住む同胞がまず入居した」と安さん。その後、59年12月に始まった帰国事業により、原郷からも多くの同胞が帰国したことから空き家が生じ、明戸、本郷に住む同胞が「305」へ引っ越してきたという。

 本郷に住んでいた同胞らは60年1月、記念植樹をして帰国した。その際建てられた碑は、本郷小学校の跡地に今も残っている。

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 かつて、「305」には約90戸、500余人の同胞が暮らしていたが、今では10余戸に減った。安さん宅は増改築を重ねたが、2階を設けなかったことから今も昔の面影を残している。48年前、家の前に植えたひざほどの高さの木は30数メートルにまで成長した。夏になると、1世たちがその前にござを敷いて集まり、昔を懐かしんだものだが、当時を知る1世もほとんどいなくなった。(羅基哲記者)