わがまち・ウリトンネ(22)/埼玉・深谷(1) 安承模


造兵廠建設に5000人/火薬製造にも従事させられる

 群馬県に隣接する埼玉県北部の深谷市。ここには現在、約200人の同胞が点在して住む。しかし戦時中、この辺一帯の幡羅(はたら、現在の原郷一帯)、明戸(あけど)、本郷の3村には約5000人もの同胞が住んでいた。

 「深谷造兵廠(しょう)の建設と、その近辺に掘られた防空壕づくりに従事した人たちなんです」

 深谷の長老、安承模さん(81)は、トンネが形成されるようになった歴史的経緯についてこう語る。安さんは祖国が解放された翌年の1946年10月、東京から深谷に引っ越してきた。以来、53年間この地に暮らす。

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 メモ 深谷造兵廠は、板橋にあった、火薬を製造していた第2陸軍造兵廠の疎開工場として建てられた。米軍が東京を攻撃した場合、攻撃目標にされるのは間違いなかったからだ。建設が始まったのは43年頃。原郷、明戸、櫛引(くしびき)の3つの製造所からなる。

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 安さんが聞いたところでは、製造所の建設にあたった同胞たちは建設現場周辺に建てられた飯場で暮らしていた。軍関係の工事で、しかも突貫工事だったことから、日給は4円50銭と、他の土木工事に比べて高値だった。それにつられ各地から多くの同胞が集まってきたともいう。

 この工事に携わった同胞以外にも、徴用で朝鮮半島から強制連行され、製造所で火薬造りに従事した同胞もいた。

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 メモ 深谷造兵廠に学徒動員された埼玉師範学校の宮田正治氏は、当時の資料と見聞を「教育隊記」にまとめているが、そこには、289人の同胞が慶尚北道から強制連行されたと記されている。年齢は18〜31歳、妻子のある者が相当数いた。原郷と櫛引の製造所に配置され、火薬製造過程に従事させられた。

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 安さんも強制連行体験者だ。39年、「日本に行けば金を稼いで故郷に仕送りができる」、などとの日本の憲兵の甘い言葉にだまされ、募集の名目で長野県のダム建設現場に連れていかれた。21歳の時である。

 「日給は2円50銭だったが、飯代として1円取られた。タバコを吸って、酒でも飲んだら手元にいくらも残らなかった」、「危険が伴う工事だったので、毎日のように死者が出ていた。監視の憲兵は、木刀で同胞をめった打ちにするのが日課だった」

 だまされて強制的に連れてこられたあげく、死と隣り合わせの生活に不安を抱いた安さんは、連行された5ヵ月後の7月、故郷(慶尚北道)の仲間と逃亡を決意した。山中を抜け出し、5日間かけてようやく東京まで逃げてきた。

 「途中、同胞の飯場で御飯を食べさせてもらったり、農家でトマトなどを『拝借』して、飢えをしのいだ」と当時を振り返る。(羅基哲記者)